君の名は。(新海誠/日本/2016) 僕たちは忘れ続ける

20161005 TOHOシネマズ小田原にて鑑賞。

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www.kiminona.com

 

久しぶりにアニメ映画を見ました。新海誠監督作は秒速5センチメートルをみています。背景がきれいだよね(定番の感想)。背景は絵画的なのに人物は小説みたいだなっていう印象を持っていました。ちょっとちぐはぐな感じ。それがいいのかな。

今作もそのへんの居心地の悪さというか、ちぐはぐな印象はぬぐえなかったです。背景や空や人物の所作は滑らかな肌触りなんだけど、人物の表情や台詞、感情表現だけが浮いているというか、デフォルメされて角ばっているというか、滑らかさがない。デフォルメされている分見やすくはなっているんだろうけど、私には表現のダブルスタンダードのように思えてしまって、最初から最後までお尻のすわりが悪かったです。あとOPでの、大仰に手を伸ばしたりというアニメ的表現になんか耐えられなかったんだよね(だって実際にそんなことなかなかしないじゃんという気持ち)。それは私がアニメ的表現の文脈に慣れてないからかもしれないですし、新海監督は違和感を感じさせるためにわざとそうしているのかもしれないです。

で、男の子と女の子が引き継がれて紡がれてきた糸の結び目になるという物語についてですが、実はあんまり感情移入も集中もできなかった。というか、多分この映画の本当の旨みは結び目にはなくて、多分「忘却」にある。「忘れないこと」ではなくて「忘れてしまうこと」にある。

どれだけ強い結び目であれと思っても、過去はすべて記憶のなかで変質し、失われ、それに抗うために人は何か(紐とか、文字とか、儀式とか)を依代にしようとするんだけど、それに頼ってすらも忘却の力に抗うことは難しい。その消失にこそセンチメンタルの結晶があって、瞬間、その結晶はこの映画の信じられないほど美しい星空のように輝く。なので、本来この映画は雪の日の東京の歩道橋ですれ違う二人のシーンで終わってよかったし、そこから後ろは大衆に向けたサービスというか、蛇足かなと思いました。ちょっとだらしないよね、あのラストシーンは。

でもこれくらいの方がお客さんは入るんだろうと思います。実際、私が見た回は平日の昼でしたが、老若男女問わず結構なお客さんが入っていました。私も母と一緒にみました。

しかしながら、母の開口一番の感想は、「なんか難しかったね…」でした。あんなにわざとらしく性をデフォルメしてがに股と内股にしても駄目なわけよ。多分、アニメ文脈をそもそも理解してないと???ってなる部分があるんだろうと思う。わたしが感じている違和感もそれなのかな。背景がきれいなアニメ、とは思えない。背景と人物のレギュレーションが一致していないアニメ、という感じがする。とにかく、大衆に受け入れられるって難しいものだなと思いました。本当に。

あと民俗学者が政治家になるって設定は違和感ありすぎた。民族学者ならともかく民俗学者だよね?お父さんはもうちょっとなんとかならなかっただろうか。

 

ここからは多分映画の本筋からは離れる…のかな離れないのかな。ある程度意図されているとは思うけど、メインストーリーであるボーイミーツガールとは違う話です。

実は、町を救うために学校放送で避難を呼びかけるあたりから、東日本大震災当時のことを思い出して涙が止まらなくなり、その先の話があまり頭に入ってきませんでした。災害描写は明らかに震災を意識していると思うので、そこまで的外れな感慨ではないと思います。

断わっておくと、私は当時東京で暮らしていたので、まったく被災はしていません。私が思い出していた震災は報道の中で流れる遠くの現実で、震災そのものではないです。ただ、私がそのときそれを報道で見ていたという体験が私の震災体験で、東京に住む瀧(神木隆之介)の立場とすごく重なって、なんかつらくなっちゃったんですよね。

東北で震災があったあの日、私は会社で仕事をしてました。これといった実害はなかったのですが、電話も通じず、テレビもなく、電車も止まっているので自宅に帰れず、同僚と歩いていける距離にある中華料理屋で時間をつぶしていました。その中華料理屋のテレビに映る映像で、初めてどこで何が起こったのか、そのごく一部を知ったのでした。

その映像は一面に広がる田んぼのなかに津波が押し寄せてきて、逃げて走る軽トラックがのみこまれる映像でした。そのトラックに乗っていた人の生死はわかりません。でもそのトラックを飲み込んだ波はそのまま住宅地にぶつかって進んでいきました。その映像が流れたとき、普段だったら会話が飛び交ってにぎやかな中華料理屋は、ほぼ満席だったのに静まり返っていました。

震災の当日やその後、何をしたのか、どうやって生活していたか、何を考えていたのか、今の私はほとんど覚えてないのですが、その映像を見たときのことだけは強く覚えています。

映画の中で、瀧は3年前のその時につながって、その悲劇に介入することができます。でも震災を経験したとき、私は起こってしまったそのことに何も介入することができず、もう起こってしまった人々の死を、テレビの向こうから眺めていることしかできなかった。

彗星が落ちたあの町にいた人たちは、実際には死んでいたはずで、それに何の介入もできない無力さを思って、なんだかその当時を思い出して辛くなったのでした。これは私の震災についての体験の話であって、もっとつらい人がいたとか、できることをやればいいとか、そういう話じゃないです。テレビの向こうから流れてくる、もう起こってしまって巻き戻しができない人の死をみるという体験についての話です。

 

楽しい記憶や日々の記憶はどんどん零れ落ちて忘れてしまうのに、つらい記憶はずっと長持ちする。それは、人がそれを紡いで伝えて、いつかくる危機を避けるためのリスク管理の装置なんだろうか。君の名は。という映画もその紡がれた糸の内の1本ということかもしれないです。