ボーダーライン(ドゥニ・ヴィルヌーヴ/2015/アメリカ) 僕の約束を守って

20160525 角川シネマ新宿にて

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最もおそろしい死ってなにかな、と考える。

病気で苦しんで死ぬ、交通事故で死ぬ、首をくくって死ぬ、レイプされて遺棄されて死ぬ、戦争で死ぬ、飢えて死ぬ、刺されて死ぬ、銃で打たれて死ぬ、殴られて死ぬ、手足を切られて死ぬ、ドラム缶にコンクリート詰めにされて死ぬ、家族を目の前で殺された末、死ぬ。

私はとにかく残虐で、非人道的で、尊厳をはく奪された死に方をしたくはない、できることなら私の家族にも尊厳を保ったまま死んでほしい。死はいずれ必ず訪れるけれど、できるだけ穏やかにその時が来てほしい。

 

そこで私たちは「約束」する。「私はあなたを殺さないので、あなたも私を殺さないでください。」

生命を尊び、法にのっとり、罪を犯した者は罰せられ、安全に朝起きて、食事をし、道を歩き、仕事をして、夜には家族と眠る生活が守られるよう、お互いを尊重しあうと約束して社会を形成する。

しかし現実はどうだろう。約束の恩恵が平等に与えられることはない。愛する者が安全で豊かに生きる暮らしを望むなら、「どちらが最初に約束を破るか」を競うことになる。「約束」は守られることなく、倫理は破綻し、社会は荒廃する。

 

法にのっとり尊厳が保たれた社会を維持するための暴力の行使者であるケイト(エミリー・ブラント)が、荒廃した世界で立つ地面を失い暴力そのものになってしまったアレハンドロ(ベニチオ・デル・トロ)にいったい何が言えるだろうか。あなたもわたしも望んだものは同じなのに。

アレハンドロはケイトに、暴力を放棄してボーダーラインの向こうに戻れと諭す。アレハンドロは向こう側には行けない。ボーダーラインの内側に生まれた人だから。

ベニチオ・デル・トロの顔ってすごく奥行きがありますよな~。見るたびに役者としてすごく恵まれた容貌だと思います。滲む悲哀…滲む分以外には全く外に漏れない悲哀。もしかして手をつなぐことができるんじゃないかと思わせるのに、手をつなごうとした瞬間に銃口を向けられるアンビバレンスが素晴らしい。

エミリー・ブラントは、成熟した女性であると同時に見せる永遠の少女の顔。つかれた潔癖の向こう側に、野原を無邪気に駆け回る少女が見える。かいまみえる少女性が清廉で、グロテスクさがないのは彼女のチャームですね。

R15で直接的な暴力表現はフレームの外側に、音と暴力を行使している本人を見せるだけっていうのがよかったです。余計に怖いよ。

あと、CIAと特殊部隊のトンネル突入シーンもすごくよかったです。真っ赤な萌える夕焼けから夜の暗闇へのグラデーション、その手前を横切る暗視スコープを装備した隊員たちの黒いシルエットは、思わずため息の出る美しさだった。撮影はコーエン兄弟作品でおなじみのロジャー・ディーキンスです。

余談ですが、ちょうどスタチャンでゼロ・ダーク・サーティみたばかりでつい比べてしまったんだけど、ゼロ・ダーク・サーティより良かったね…。とてもドキドキしたし、約束なき暴力の世界の不条理さ、不気味さ満点でした。わたしと同じ列に座っていた人がすごい驚き屋さんで、突然の銃撃のたびに椅子が揺れ…これが4DXか……

キャスリン・ビグローってあまり好きになれないんですが(ハートロッカーとゼロ・ダーク・サーティしかみてないけど)、ボーダーラインを見てその理由をうっすら考えました。つまり、そもそも約束を破ったのはお前なんじゃないのっていう視点が欠けてる気がするんだな。それはシビルウォーにおけるキャップに欠けてると感じる要素でもある(余談の余談)。

そんなんじゃアメリカの正義の話なんて誰も聞く気が起きないよ。と広島にやってくるオバマさんにいいたくなるのも致し方なかろうもん。

ヘイル、シーザー!(ジョエル・コーエン、イーサン・コーエン/アメリカ/2016) 私たちの物語を照らす光

20160520 ユナイテッドシネマ豊洲にて鑑賞。

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そもそもわたしは映画(舞台)をつくる映画や映画の中に映画が出てくる映画(読みにくいな)に大変弱く、そのためこの映画についても大号泣でございました。

私は映画に詳しいわけでもなく予備知識もさほどないので、そのあたりはあとで勉強するとして(いいわけ)、私が初めてスクリーンで体感したコーエン兄弟ショックについて、粛々と記しておきます。

この映画は、きらびやかな50年代のハリウッドを舞台として、搾取されている労働者から資本主義の奴隷となっているハリウッド映画への告発(共産主義)と、劇中劇として登場するキリスト教映画(ローマ軍の将校がキリストの前に魂を打たれる話)の2筋のストーリーがメインプロットになっています。この2つのストーリーは、「光」で交錯していく。

ここでいう「光」っていうのは、例えばキリスト教や資本主義、共産主義など、名前が付いた、権威化したものを指しているのではなく、そうした装飾をとりはらったプリミティブなものだと思います(本来の意味での信仰と、権威化されてる信仰とは別のものだと考える)。

たとえば、その光は、映画をめぐるトラブル解決に奔走しながら映画業界は「虚業」だと言われ、「実業」であるロッキード社への転職に揺れるエディが、すでに心の中にもっていた答えでもある。

共産主義に傾倒したバートが、飛び込んできた愛犬のためにあっさり活動資金を海に落としてしまうときに射す光でもある。

演技がさっぱりできない田舎者のボビーが、エディが心配しているから帰るんだ、ときっぱり語るときに瞳に射す光でもある。

共産主義にかぶれて、ハリウッド映画は資本家の私腹を肥やすツールだよとのたまうベアードに対して、エディはいま腹の底からでた言葉を出して来いそれがお前の(わたしたちの)すべてだっとビンタを張って現場に送り出す。そしてベアードは、実際には存在しないキリストの前に膝まづき、光に照らされる演技で、その現場にいたすべての人々の心を捉え、畏敬の念を抱かせる(台詞ミスってダメになるんだけどw)。

人はいろんなものに救いを求める。それは宗教だったり資本主義だったり、共産主義だったり、名誉だったり、お金だったり、恋人だったり、いろいろです。でも、生きている一人ひとりの物語が腹の底から出てくる剥き出しの光(私たちの中にある内的な光)に照らされるとき、それは教派も思想も貧富も身分も出身も年齢も善悪もすべてを超えて人生を祝福する。その光は私たちに寄り添い、私たちが自分の職務にただ励むことを祝福する。  

そして映画もまた、フィルムを通る光によって照らされるとき、教派も思想も貧富も身分も出身も年齢も善悪も超えて、ひとびとに寄り添う夢の光になる。

 

映画はそのようなものだと多分、コーエン兄弟は信じている。そのようにして映画を撮っている。

 

…う~~ん…もっとうまくまとめられたらいいんですけど、こう…うまく伝えられた気がしない。正直言うと、テキストの理解が所々で追いつかない部分もあり(不勉強)、もう一回みたいなあという感じですが、とりあえず今私にかけるのはここまでだ(大の字)。

 

どの俳優もすばらしくて、しかもそれが物語のためにすべてささげられていて、なんて贅沢な映画だよ…という気持ち。特にアルデン・エーレンライクはとっても良かったです。彼の役はアンナ・カレーニナでいうリョーヴィンみたいな存在なんですが、その説得力が本当に素晴らしかった。

大根役者でまともな映画になりそうになかった作品、編集室でそのフィルムが映し出されたとき、彼とそのフィルムを撮った往年の名監督が素晴らしい仕事をしたのだということが一目でわかる。月を眺めてわけもわからず歌をうたったその演技で、彼が圧倒的な才能をもった若者だという説得力を持たせる。粗野で品のないキャラクタの奥からにじみ出る、飾りをとっぱらって真実を見抜く言葉のするどさ、瞳の光は、この映画の背骨でもあったように思う。

出演作ではヴァージニア、イノセント・ガーデンブルージャスミンとみているはずが、あまり記憶がなく…でもヴァージニアの不良役はかなり印象的だった。エル・ファニングとバイクに乗ってた子だよね???(多分)

スターウォーズはみりしらなのですが、これから先が大変楽しみな俳優だなと思いました。

うまくまとめられないけど、すごく好きな映画です。映画中にでてきた、完成試写やフィルムの再生場面で、私は全部だばだばに泣いてしまったよ。「地獄でなぜ悪い」とかも大好きなんだけど、あれも完成試写(妄想)のところでいつも泣いてしまうのだった。

これがもう過去の幻想でしかないとしても、映画はフィルムの隙間を光がとおって映し出される物語のことを指すんだよ、と信じる。

  

160523修正

善性の光という言葉を剥き出しの光という言葉に修正しました。そちらの方がしっくりきます

 

 

 

 

追憶の森(ガス・ヴァン・サント/アメリカ/2015)

20160512、ユナイテッドシネマ豊洲にて鑑賞。

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マコノヒー案件として豊洲に赴く。ガス・ヴァン・サントはなんか気が合わなさそうだなという気がしていたのでじつは初見です…洗礼を浴びるの巻。

カンヌで酷評という報道をほぼ一年前に目にしていたので、戦々恐々としていましたが、なるほど…なるほどね。酷評されるのもわからぬでもないし、あまりカンヌと相性がよくなさそうな内容でしたw

ネタバレが映画の重要な部分を担っているので、以下ご覧になる方は回避推奨です。

 

 

まずは謙さんがガチ守護天使(比喩ではない)であるということがわかったところで、そういう映画だったのならもっとそういう感じで話をしてくれよ!という気持ちがわいてきたのが正直な感想です。

この映画のどーなのよ??となる主な部分は、展開が唐突だとかご都合主義過ぎ、などかと思います。話自体の展開はそんなにいうほどお粗末ではないし、日本国内の描写もそこまで陳腐じゃないんだけど、おそらくプロット?というか物語り方?に問題があって、ladder(皮肉ではないです)を上るための段が2,3個抜けているために、そのシーンがどのように意図されているものなのかがしっかり伝わらない。とくに導入部分…彼の動機自体がミステリの一部なのでそこが書けないのは仕方がないんだけど、もうすこし彼のパーソナリティがわかるようなカットがほしいですよね…どんなやつなのか全然わからないので心が話についていけなくなる。ほんのすこし丁寧に入れるだけでもいいと思うんですけど…

そしてもうひとつ、???となる部分に物語のレイヤーの浅さがある。つまり割と理由が陳腐に見えるってことなんですが。

「死者との対話」と「魂の救済」というテーマが陳腐だとは思わないです。そのテーマの設定に対する説得力のなさが、物語を陳腐にみせる。

たとえば、日本の富士山信仰、山岳信仰についてのレイヤーがもう一枚重なっていたらどうだろうか。なぜ死を求める人が集まり、なぜ死者との対話ができるのか。なぜそれが富士山麓の森なのか。

そして、その森に神性が宿っていれば(森を移すショットにフィルムのマジックを感じたなら)もっともっと深みのある映画になったのではないかと思う。テーマはレヴェナントにわりと近いんじゃないかと思うのですが、ルベツキの撮った森には神が宿っていたけど、この映画にはそれはなかったと思います。

あとちょっと気になったのは、中途半端にタクミ(謙さん)が自分のプロフィールを語るところで、それは…こうもうちょっと気の利いたやり方があったんじゃないかなと思いました。

というわけで、残念な部分もあった映画でしたが、マコノヒーが大好きな私としては、森の中で2人の男が死体と一緒に抱き合ったり語ったり眠ったりという充実した映画でもありました。眼鏡が素敵ね…。主演2人のペアはとっても素敵でした。

しばしば思うのですが、こういう日本を舞台にした映画を海外の人が撮るとき、その文化的背景を詳しい人に聞くという発想はないのだろうか?そんな余裕ないのかもしれないですけど。

 

シビルウォー キャプテンアメリカ(アンソニー・ルッソ、ジョー・ルッソ/アメリカ/2016)  私の戦争はどこ

としまえん3DIMAXにて鑑賞。

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またMCUですごい作品が生まれたな〜。色々な切り取り方ができる作品ですが、大きな嘘を支える小さな嘘としての痛みと、ルッソ兄弟の暴力描写について思ったことを。


ズートピアと同じくよく出来すぎてて感想の言葉を失いますな。前作のWSでもそうなんですが、まずアクションが素晴らしいですよね。私がすごく好きなのは、慣性がきちっと描かれること。殴った側の反動と、殴られた側が接触して、吹っ飛んで、何かにぶつかり跳ね返る(これがとてもいい)までがアクションのワンセットとなっていて、その重力がつまりたしかにそこにある「痛み」に説得力を持たせる。

ヒーロー映画は起こる出来事(フィクション、嘘)は大きくなきゃいけないけど、嘘はでかすぎると、観客は置いてけぼりになる。そこで大きな嘘を支えるためには、さも本当にそこにあると観客に思わせられるような小さな嘘をつみかさねて説得力を出さなきゃいけない。

映画の大きな嘘を支えているルッソ兄弟の「小さな嘘」は、確かにそこにある「痛み」であり、それがつまりあの暴力描写、アクションなんじゃないかと今回強く思いました。本当にアクションは素晴らしかったよ~。なんどもうっと声を出してしまった。

 

アベンジャーズの働きによって無関係の市民が(ごめんなさい数覚えてない)死にました、と聞いて、最初は大局を考えたら小さい犠牲は仕方ないのでは?って思う。ティ・チャカが父の敵を討つと誓ったとき、その憎しみは個人的なもので、公のことを考えたらどうよ…とも思う。
痛みが自分から離れたところにあるとき、私たちは個人よりも大局を優先すべきと考える。多分トニーの心境に近いのではないかしら。彼は戦争に使う道具を作る人で、彼は彼なりに大局を考えて平和を維持するために自分の力を使おうとしているけど、戦争自体はすごく遠くにある人です。

トニーが自分の父母の真実を知ったときに、彼の前に初めて知性を覆ってしまう怒りと圧倒的に現実の「痛み」がやってくる。私たちはその姿をみて哀しみ、でもバッキーが悪くないことも知っていて、それでも抑えきれないトニーの怒りに心が引き裂かれて涙する。

でも、でもその痛みは、私が人数も覚えていないソコヴィアで死んだ市民にも起こったことなんだよ、トニー…皆に起こっていたことはそれなの…。トニーも私も、ラストに至ってそのことを本当の意味で理解する。ジーモにとっても遠くにあった痛みは家族を失って初めて現実となった。

映画冒頭は希薄だった痛みは、小気味よく切れがよくしかし圧倒的に重力のある暴力描写によって丁寧に嘘が積み重ねられて、最後に至り私たちに現実世界の確かな痛みを突きつける。それは、今、アメリカ(裕福な私たち)から遠く離れた世界で起こっている現実の痛みでもある…

そして、現実の世界でも存在している問題に対して、オプティミスティックな祈りもしっかりと映画の中で描かれる。それはまさに祈りだと思うんだけど。これはズートピアと一緒で、ブロックバスター映画が担うべき責務みたいな意思を感じたのでした。

その一つはティ・チャカがジーモを許すことだよね。私はマンデラ大統領のことなどを思い出したりもしたんだけど、結局一番最初に犠牲になるのはいわゆる第三国の貧しい人々なのは象徴的だし、報復を最初に放棄し争いの連鎖を断ち切るのがティ・チャカなのもすごく象徴的だった。

もう一つは、キャップの手紙にあるindividualですよね。複雑になってしまったこの世界で私とあなたの最小単位においてまだ分かり合うことは可能なのではないか。現実にはすごく難しいことだけど…

それってきっとルッソ兄弟が考えるアメリカっていう国のスピリットでもあり希望でもあると思うのですよね。キャップはアメリカの魂として、それを信じているんだな。キャップはすごくすごくかっこいいです…それぞれキャラの憂いを乗せた表情も丁寧に撮ってて美しかった。
あらゆる方面に目配せし、楽しませる要素は行き届き、 ドキドキするサスペンス(終盤までジーモの思惑がうまく隠されてるのうめえな!て思いました。この大作の悪役を上滑りせず務めたダニエル・ブリュールは本当にブリリアント)も、思わぬ展開の逆転もあり、シリアスな話が重たくなってきたところでスカッとするアクションもあり、次回作が自分たちの手を離れても大丈夫なように、気を効かせて話を閉じる。 個々のキャラクタたちは一人一人が信念を持って行動し、生き生きとストーリーを紡いでいく。ルッソ兄弟がどこまで走るのか続きを見るのが楽しみです!

 

あと新しいスパイダーマンも超楽しみ。ブラックパンサーも!!あとナターシャの個人タイトルどうか頼む(ナタクリ出会い編で)。

今回、知ってる俳優いっぱい出てきて楽しかった!ダニエル・ブリュールの役どころ全く知らなかったのでびっくりとともに、すご~~くよかった。。あの悪役の位置にドイツ人俳優を配役したのは、これもまたバランス感覚というやつかと思いました。マーティンまじでいつもと同じ感じでめちゃわらった。普通のおじさん最高w
トム・ホランドのスパイディめちゃ楽しみっ!キャップとのボーイ!どこ出身だよ!ってのもよかった…。私はオンザハイウェイで声の出演だけ聞いています。スパイディの軽妙さがアベンジャーズにいるときの空気読まない感じに通づるとこがあり楽しかった。マリサ・トメイのメイおばさん反則すぎ。

細かいところで、老年期のスターク父ちゃんがマッドメンのロジャーだったのもおってなりました。あとスタン・リー御大の登場シーンは個人的に一番好きかも。ガーディアンズオブギャラクシーのも好きなんですけどw

終盤近くのロシア行ってからはもう、本当に暴力描写が耽美としか言いようがなく…もういっかい2Dで見たい、キャップもバッキーもトニーも、ティ・チャラもジーモも、本当に美しい表情だった。すばらしかったよ。正直に申し上げると、役者としての力量がRDJが頭一つ抜けているのでちょっとバランスが崩れてしまっているという気がしましたが…

あえて物足りない部分をあげるなら、キャップのキャラクタが弱いということ、アメリカの功罪の罪がいつも彼の外側にあるという点でどうしても物足りないと感じるのですが、それはインフィニティー・ウォーの出来を待とうと思います。

 

中盤の楽しいガチンコ対決はほんと楽しいガチンコ対決だったんだけど(でかくなるの楽しいすぎ)、もしアベンジャーズにXMEN合流してたら収集つかんかったな…って夢想してにやにやしました。どう考えても教授はチートやな…

 

レヴェナント(アレハンドロ・ゴンサレス・イニャリトゥ/アメリカ/2015) 私を導くnatureの声

20160427、としまえんIMAXにて鑑賞。

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率直に言って期待ほどではなかったです。ちょっとトレイラーの編集ずるくないかいという部分もあります。

イニャリトゥの映画のテーマは、基本的には喜びも悲しみも祝福も呪詛も、ただ私たちはその船に乗って移動するしかなくその先は不可知(神のみぞ知る)である、ってことなのかなと思ってるんですが。もちろん神っていうのは宗教上作りだされた神じゃないよ。なんですかね。運命みたいなもの。

で、レヴェナントはその不可知の先は、山や川や雪や風や木々の木漏れ日や沈む夕日や動物たちの息遣いや流れる血の向こう側にあるっていう映画だと思うんです。で、その中に放り出された人間は、その不可知の声を極限で受信する。


てことだと思うんですけど。この映画がそのテーマを受け止め切れていたかと言われるとううむ…。ハードルをクリアしていたのはルベツキの撮影(自然光ってなんだよすごい)、教授の音楽、役者はトム・ハーディまでかなという印象でした。


レオは、依代でなければならなかった。でもそういう役者じゃないし、ミスキャストだよね(ごめん)。不可知の声を聴くにはレオの肉体はnatureから遠すぎる。これでオスカー取らせるなら、絶対にジャンゴのキャンディで取らせるべきだった。んも~~オスカーおめでとう!!
トムハーディは、本当にいい役者ですね私とても好きです。ラストの極限のシーンにおいてあの歩き方…輪郭が境界線の上を揺らいでいる。あんな歩き方できる!?できないよ!!本当にいい役者だな~と感心しました。ドーナル・グリーソンもめちゃすきなんだけど、この映画ではちと役に着られてたかな…

ともかくも、この映画は撮影の迫力なくしては語れないっていうかそれがすべてなのではなかろうか。曇天がこんなに美しい映画なかなかなと思います。特に降りかかる試練がやってくるたびに挟みこまれる、木々を見上げるショットが秀逸です。そのとき耳を澄まして私は啓示を待っていた。

私は山生まれ(あんな過酷じゃないけど)なので、木々から漏れる光や揺れる葉の影や通り過ぎる風の音や湿った土の匂いが、やけにすぐ近くにあるような、自分が拡大していくような感覚、子どものころ知ってたなってことを思い出した。それが、フィルムの中にちゃんとありました。


上記のような理由で、この映画はできることならIMAXで見たほうがいいし、映画館で見られないなら家で見ても仕方がないから見なくてもいい映画だと思われます。
これは感想じゃないんだけど、直前にバベルと21gを見直してたこともあり、イニャリトゥはまたロドリゴ・プリエトとも仕事しないのかな~~~って思いました。もちろんルベツキすごいんだけど。

ズートピア(リッチ・ムーア、バイロン・ハワード/アメリカ/2016) あなたと肩を並べたい

20160425、としまえんにて2D吹替で鑑賞。

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上戸彩ちゃんの声優よかったです!ジュディのキャラクタに声があってました。橋の下での再会はもう一声という感じでしたが…ニックの声優さんともさほど違和感なかった。マーベルの声優の方もちゃんと選んでくれたらいいのに…

すんごいクレバーな脚本で、とにかく見てくれ!見たらわかるって感じです。よく出来すぎていて語る言葉がない…

ズートピアは差別と偏見とボーダーレスについての映画だと思うんですが、わかりやすく楽しくスピード感も失わないまま、かつ深度をもって丁寧にボーダーレスについての議論を提供できるのがとにかくすごい。

私たちがズートピアの宣伝でジュディを見て可愛い〜って呟くことすら、先入観と偏見の一部であることを開始15分くらいで指摘されて、その切っ先の鋭さにいきなり刺される…ジュディはちょっとエロチックなデザインだなと思うんですが、それを見越したキャラクタデザインなんだと。誰にでも「先入観がある」ことをまずたたきつけられる。

そっからまたすごくて、ズートピアは社会的弱者が偏見をはねのけて頑張る物語からさらに一歩踏み込んで、社会的弱者というマジョリティが新たな社会的弱者を生み出す構図まできっちり示す。社会的弱者は社会情勢の中で迫害者にもなりうる、その危険性をいつも秘めてることをちゃんと提示するんですよね。日本の社会で議論されてる差別やらなんやらよりずっと先にある問題でっせ。秋元康の歌詞がどうタラでもめてるんだぞ?

 

この映画を見て育った子どもはどんな大人になるんだろう。大人が子どもたちにどんな未来を提示するのか、その責任感をひしひしと感じる内容だった。社会がぎくしゃくし始めたときに、ストップをかけて多様性と受容を促すのはポップスターだった(声はシャキーラ!)エンターテイメントを作っている側の気概を感じる。

「ありのままで」の歪さを揶揄するセリフが出てきてハッとする。アップデートを怠らないその姿勢、本当にすごいですよな。

 

個性を個人的な物語の枠では納めずに社会の問題としても描く。そしてその上で、是と非を示す。ズートピアで非として提示されるのは、猜疑心、臆病さ、自己保身、過ちを認めないこと、薬物、恐怖などです。犯罪や暴力は必ずしも悪に含まれない。子ども向けアニメだぞ。とがりすぎっ。

 

そして、そんなまじめななんやかやをすべてひっくるめた上で、ニックとジュディめーーーっちゃ萌えるバディなんですよね…なんなの??二人はズッ友なの??相棒なの??付き合うの??付き合わないの??本当は好きなんでしょ??えーーーてなる。ロマンスの配分もまことに絶妙…


なりたい私と変わらない私。あなたと私は生物学的に異なる生き物。生物学的要因で線を引くことで偏見が生まれる。じゃあただ生物学的要因を無視すればいい?それで偏見は乗り越えられる?本当にあなたに伝えたいことはなにか?あなたと肩を並べるにはどうしたらいい?

ということが、ニックとジュディの友情(愛情)を通して丁寧に描かれる。この映画を見た子どもたちはどんな夢を描くだろう。ウサギの私はぞうにはなれない。でも警察官にならなれるし、あなたの友達にもなれる。
ズートピアと並べて語られるべき映画は、ヘイトフル・エイトだと思います。一方は正義の地平線、一方は悪の地平線だけど、それは一本で繋がってるしその果てには同じものを見ている。あなたと私がただ一つの存在として同じ地面に立つ大地。


その他。アニメーションの一つ一つのしぐさやまるで生きているように生々しいのに、同時に型にのっとったコミカルさもある。先入観、偏見、型、様式美。でも型は精髄でもあるんだよね。そして型があるからこそ、そこから高く飛ぶこともできる。そんなことを考えました。

ネズミのマフィアのマフィア映画然とした結婚式シーンとファミリーっぷりに胸熱。アメリカの交通局は対応がナマケモノ並に遅いのであろう。最後のニックのお前、俺のこと好きなんだろ?は反則すぎだろ!!それに対するジュディの返しがハイハイど~かねなのもう…萌え死んじゃうからやめてくだされディズニー様。

ルーム(レニー・エイブラハムソン/カナダ・アイルランド/2015) 世界は私の瞳に映るもの

20160416、としまえんにて鑑賞。

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まあ泣くであろうと思われたのでキャストオフして映画館に行き、案の定めちゃくちゃ泣いた。すごくよかった部分ともう一声という部分が入り混じっていますが、総体でいくと面白かったです!


まず、すごく良かったところは、『世界』はわたしの手触り、わたしの瞳に映るもの、耳に飛び込み、匂いがして、味わうもの、そしてみたことないものが初めて広がった時の恐怖と好奇心と、喜びがスクリーンに現れる美しさでございます。ルームから出た後の青空よ。

青空のシーンでドランのmammyの、画角が広がるシーンを思い出しました。で、これは比べるのがいいのか悪いのかわからんのですが、物足りないと思うところは、子どもがあまりに物分りがよすぎやしないかという点です。つまり、世界への自由に対してポジティブすぎるというか…

シチュエーションからわかる通り、世界にはとても重たい事実が含まれている。自分の外側からだけじゃなく、内側からも既定の倫理から解き放たれた自由はどうしようもなく轟々身を焦がして、人は悶絶する。mammyはその上で世界の美しさを撮ってみたわけだけど…。

でも、ジャックのあの健やかさが、ルームの中で必死の思いでジョイが強く守り通したものなのだと思えば、ジャックの健やかさに応える世界の暖かさは、彼らが血みどろで勝ち取った自由なのだとも思う。ルームの内側にジャックは正しく別れを告げ、広い世界にこんにちはしたのだ。

荒れ狂う炎の部分はオブラートに包んで、天窓から見えた小さい空がスクリーンいっぱいに広がった時のカタルシスを、ただただ祝福しているんだなって思う。私に子どもがいたら嗚咽が出てしまっただろうと思う。

ブリー・ラーソンはオスカーにふさわしく。大仰な感情表現は抑え、息子のためにぐっと理性で踏ん張る重心の低い演技。下手くそな演技の演技がうますぎて、めちゃハラハラしまたわ。スリラー部分も良く出来た映画です。

ジャック役のジェイコブ・トリンブレイは、あれは演技なのかな…わからない。どのような理由であってもあの世界に直面した時の横顔を撮ったのはすごいことです。その辺は誰も知らないを思いだしました。

その他。おばあちゃんの彼氏のトム・マッカムスがめちゃんこ優しそうでホッとした。7年の間にじいちゃんとばあちゃんの関係が破綻してたのもすごく良かったです。世界の残酷さと複雑さを短い出演時間の中でズバッと切断面見せたウィリアム・H・メイシーの瞳はやっぱすごいなと思った。