8月納涼歌舞伎「野田版 桜の森の満開の下」その3/ずっと前から独りきり、桜の森で待っていた

おはようございます。

私のブログにしては異常に閲覧数上がってて急に不安になったので、続きを書く前に前書きさせてください(インターネッツが自分の庭じゃないと気付いた)。

  1. 最初にも書きましたが、私はドが付く歌舞伎の素人なので(初回に観た時、エナコ役の中村芝のぶさんをガチで女性だと思っていた)そのあたりの知識は皆無です。なので、オヤと思うことがあったらご教授いただけると非常にうれしいです。特に不安なのが人名役名よ…間違っていたら教えて…
  2. これも書いたのですが、野田さんの作品を観るのも初めて、ていうか観劇もほぼしたことないミリしら野郎でその辺の知識が皆無なので、オヤと思うことがあったら(以下略)
  3. しょせん学生の修論レベルですから坂口安吾についての知識もたかが知れています。貼ってあるリンクは、私が言ってることがここに書いてあるぜ!というよりは、これを私はこう解釈してるけど君はどう?という意味なので、オヤと(以下略)

学生時代、考察を書くときには「~と思う」・「個人的に」などの言葉は冗長だから使わないでね個人的な意見てことはみんな知ってるからね、と指導され、確かにごもっともだなと思ってそれを守ってるんですが、使わないともの知ってる風な文章になるんですねこれが(応仁の乱壬申の乱間違えてたくせに…)。

この前書きがもう冗長だね。言い訳やめやめ!感想の続きを書きます。私はこう思ったからみんながどう思ったかはみんなが書いてくれ!よろしくお願いします。

 

その1とその2はそれなりに真面目に書いたつもりだったのですが、その3は「野田版桜の森の満開の下」と私、みたいな話であり、その1・その2よりまたさらにフワっとした話をします。軽めのテンションで体験談として書きますので、ひとりの女がひとつの舞台に出遭ったんだな~と思ってどうぞご笑覧ください。

前書き書いてて思ったけど、腰の重いわたしが幾多のハードル超えてこの舞台みるまでに至ったのはけっこう奇跡的な気がします。ハードルて大したことないやんと言われるかと思いますが、「15000円て1部だけの値段なんだァ…」(そりゃそうだろ)てとこからスタートしてる人間からすると、右も左もわからぬままに目の肥えた(であろう)人々に混じってぼっちで幕見席に並ぶまでに至るのは結構な行動力が必要でした。並んでる間、注意を説明してくれる歌舞伎座の係員さんの話をめちゃくちゃ真剣に聞いてて、我ながら笑いました。一般の劇も見ない人からしたら、やっぱり歌舞伎は敷居が高いのよ。

まあでも、これも縁ってやつですね。桜の森の満開の下で呼ばれてたんだね。


「野田版 桜の森の満開の下」を観ようと決意し、なんか恐かったので友人を誘い(なんか恐いというこの気持ちわかってほしい)、なんとか2人分チケットをとって8月19日に二階のど真ん中3列目くらいで初回鑑賞しました。観に行く前は実はちょっと懐疑的で、たぶん原作好きな人が実写版見るときに不安になるのと同じ気持ちだったと思います。しかし、幕が開いてあの大きな満開の桜の仕掛けが見えた瞬間に、アッこれは全然大丈夫だと直感的に思い、そして歌舞伎ってチケット代高えな…と思っていた自分の心を恥じました。私もシャガールの絵より値札の0を数えてしまう俗物なのだ…。

1回目を観て、とても面白かったと思いました。15000円でめちゃおつりがくるし、こんなに心づくしで丁寧に作られたものをみてしまった喜びで、友達と興奮しながら安酒を飲みに行きました(そういう気分になる話なんだ。安吾は財布に優しい)。口に入れてすぐおいしいって思えるくらいにエンタメなのに、同時に抜け目なく安吾の作品からの引用が配置されていてその魂の芯を明確に捉えていて、野田秀樹ってすごく頭いいし持ってる引き出しの数が全然違うんだな…(小並感)と感嘆しきりでした。あとで検索して「桜の森の満開の下」初演が野田さん33歳の時と知って仰天した。今の私と同い年かよ(2回目)。

野田さんが数ある作品の中から安吾を選んで敬意と愛情をもってリメイクしたんだなということも感じました(④の話です)。野田さんの舞台も歌舞伎のこともこの舞台でしか知らない私がいうのはおこがましいんですが、リベラルなのに古典を重んじる野田さんの作風は、もし安吾が生きていたら気が合って飲み友になれたんじゃないかしらんと妄想してニヤニヤしたりしました。こういうことでニヤニヤしているときは酒がうまい。

戦後まもなくの時期に安吾が書いた作品群のことを思い返すと、よくも当時あんなこと書けたものだよと改めて感心します。心が強いし身体も強いね。そういう安吾の姿勢に対する愛情と敬意を舞台から感じました。うすぼんやりした平和のなかにある今の時代だって、安吾が書いてたこと今の世に出したらめっちゃんこ叩かれて大炎上だよ。私は偉大な破壊を愛していたとか、いくら真意に言葉を尽くしたところでツイッタ~で140字に切り取られてボーボーですよ。この不謹慎野郎!発表当時のことはよく知らんが安吾も石投げられたりしたのだろうかな。そのあたりのことが、バケモノやら仏像やらつくって社会からつまはじきにされる描写に現れてるのかな、と思いました。野田さんもそういう目にあったことあるのかね~どうなのかな。

夜長姫と耳男は、そういう創作にとりつかれた鬼子たちへのエールでもあります。この脚本が何回も再演されて若い世代の人が演じていくことは、過去の鬼たちからのお前も頑張れよエールでもあるんだな~いい話だな~お酒がうまいな~。


特に私のお気に入りのキャラクタは夜長姫と耳男の二人。はもちろん、面白かっこいいマナコとピエロちゃんみたいなハンニャです。出てくるキャラクタがみんなとても愛らしくて、残酷で恐ろしい話なのに思わずウフフと笑ってしまう。全体的なムードがシリアスでないところもとても安吾らしくて気に入りました。お気に入りのシーンは青空の下で屋根に上る二人のシーンと最後の夜長姫が消えてしまうシーンです。本当に桜の中で消えてしまう場面を肉体をもった人間が表現できるんだね。アッと思わず声をあげそうになりました。七之助くんの演技も当然初めてみたんですが、とても魅力のある人だなと痺れました。彼も今の私とほぼ同い年なんですね~ガハハ(恥じ入る)。

終演して幕が閉じたその瞬間に「もう一回みてえな…」とつぶやくくらいには気に入っていたんだけど、チケットは完売しているみたいだし無理だね!残念だね!とがぶがぶ酒を飲み、その日は気分よく帰りました。

しかし、家に帰って布団の中に入ってさあ寝ようと思って目を閉じると、突然今日見た舞台がフラッシュバックして涙が出てくる。夜長姫が桜の森の満開の下で消えてしまう場面です。別に気分は悲しいわけでもないし、ショックでもないし、なんなんだこれはと思うと涙は引っ込むんだけど、閉じるとまた涙が出てくる。その一晩ぐっすり寝て(寝不足とかにはならない)朝起きて、夜が終わってしまったと思ったときに、もう一回なんとかして満開の桜の下が観たいという気持ちが固まっていました。

 

検索して幕見席なら並べば観られると知り、8月25日に右往左往しながら行列に並んで幕見席でもう一度鑑賞しました。それが19日にみたものよりずっとずっと素晴らしかった。席は当然よくないからあの美しい桜の木はちっとも見えないし、セリフもよく聞き取れない部分はあったし、マナコが大仏の首落とす一連とかまるまる見えなくて脳内補完したけれど、やっぱり19日に観たものより25日に観たもののほうがずっとよかったです。

私の理解が深まったのもあるかもしれないが、特に夜長姫演じる七之助くんの演技は(役のとおり)鬼気迫るものがあった。とても遠くから見ていても表情が見えるような、耳元で囁かれてるような感覚で、オペラグラス装着してヘッドホンしてるみたいな視聴感覚。
私はひとりで泣きました。終わった後も思い出しては断続的に涙が出てくるので、歌舞伎座から有楽町までだらだら汗を流しながらだばだば泣いている不審な女がそこにいました。

 

最後の場面、人々がキリキリ舞いで死に絶えたあと夜長姫が振り返って客席をにらみつけるあの瞬間、わたしは言葉を失ってしまう。こんなに語るべきことがたくさんある劇なのに、夜長姫のあの姿をみると何をいってもそうじゃない、というような気持になる。哀しくもない、苦しくもない、正しくもない、間違ってもいない、怖くもない、嬉しくもない、好きでもない、嫌いでもない。これまで持っていた言葉に上手くあてはめられなくてなんだか涙が出る。そうすると、舞台の上で耳男が、まるでいま、わたしのように、言葉を失っている。

その瞬間、この物語は私の物語である!と強く感じたのでした。そして、私の物語でもあり、安吾の物語でもあり、野田さんの物語でもあり、おそらくは勘九郎くんの物語であり、七之助くんの物語でもある。厳密にいうとわたしは創作者でもなんでもないから別に呪うことも殺すことも争うこともしてないんだけど、桜の森の満開の下に惹かれてしまうような人間はみんな耳男なのだ。あなたも私もみんな耳男。鬼子なんだろう。鬼子はそのようにして、好きなものは呪うか殺すか争うかして、仕事をするしかないのだ。

感想その1その2で私が安吾の言葉を借りまくってつらつらと余分に語ったような「ふるさと」が、安吾が創作者として生きて死ぬまで抱え続けた「ふるさと」が、あの桜の森の満開の下で二人の役者のその肉体に全部内包されていたのでした。

それは何だろうね。
切ない。切ないも違うんだな。言葉がない。
とにかくずっと観ていたい。観ていると涙が出てしまう。


……ブログ書きながらまた泣いとるでい。日常生活に支障が出ますで。
感想を書こうとして言葉がないとはまったく怠惰なことですし、こんなブログを読んで皆さんは知らんがなと思うでしょうが(私もそう思う)、言いたいことは「野田版 桜の森の満開の下」は素晴らしかったということなので、そう感じた人は私もそう感じたなあと感じてください。

何かの物語を自分の物語だ!と没入させられる人はそうたくさんはいないと思います。相性もあるし。でも25日の勘九郎くんの耳男にはその力があった。演技をしているというノイズが消えて、本当の人間がそこにいてそう感じているのだという瞬間があった。それは七之助くんの演技も同じです。ていうか、先に仕掛けたのは七之助くんかな、と思う。客席を振り返った瞬間から桜のなかで消えてしまう瞬間まで忘我の凄味があった(語彙がないねん)。役者二人の呼応が夜長姫と耳男の呼応とぴったり重なった空間だった。

そして、これから先、あの美しい役者たちはあのようにして何もかもをささげて生きて死ぬしかないのか、と強く感じました。それでまた涙が出てきてしまうんだな。たぶん役者としてはまだ若いお二人が夜長姫と耳男を演じたのは良いことだったのだと思います。桜の森の満開の下は「ふるさと」を知る話だから、それは大人の仕事じゃないと安吾も言っています(そもそも安吾が大人の仕事をできたのかといわれると疑問はある。どうなんでしょうね)。

これから「ふるさと」からどこへでも旅立って、でもいつでも心は桜の森の満開の下にあって、耳男が夜長姫を殺したように立派な仕事をするのでしょう。お二人とも。
そのように生きて死ぬのをみつめていることは、とても残酷なようにも思えるけれど、とても静かで優しい気持ちでもあるのだ。


そう願います。そう呪おうじゃないか。

そうして二人がやってのけた立派な仕事を観たら、わたしはまいった~。まいったなあ。というだろうと思います。
後も先もなく、あるがままの透明な気持ちで。
その時がくるのがとっても楽しみだね。

 

本当は、人はそういうことが大好きなのよ。