8月納涼歌舞伎「野田版 桜の森の満開の下」その2/ずっと前から独りきり、桜の森で待っていた

 

さて、前半の続きです。ちゃんと感想書けるのかな…不安。

歌舞伎「野田版 桜の森の満開の下」は物語が多層構造になっていて、レイヤーは(私が観ていて気付いた範囲で)こんな感じと書きました。これらを秩序/混沌の軸が貫いています。
①耳男と夜長姫をめぐる創作の源について
壬申の乱をめぐる国のかたちの成立
③日本神話における国造り(たぶん)
④創作者として生きた安吾の鬼子ぶり(たぶん)

②のレイヤーは比較的わかりやすい(イヤホンガイドでも話の筋として紹介してくれていました)ので先に②から話します。

第一幕、ヒダの匠の弟子・耳男(うっかり桜の森で師匠を殺した)と盗賊のマナコ(しっかり桜の森で匠を追いはぎした)とオオアマ(イケメン)はヒダの王家に集められて、ヒダのお姫様の夜長姫と早寝姫のために菩薩像を彫るよう命じられます。でなんやかや像を彫り始めるんだけど、実はオオアマは匠でもなんでもなくて国家の転覆を狙っている大海人皇子でした。オオアマは都の方角から鬼門にあたるヒダの国で鬼門を封じているヒダの王を懐柔し早寝姫(昼間に起きてる姫様だから太陽の象徴ね)を殺して鬼門を開き、鬼たちを連れて戦争を起こして自分が帝になります。缶蹴り(鬼門を封じてる缶があるんや)で缶をひっくり返すことに成功してこのたくらみは成就します。
この時点で秩序(国家・天智天皇)に対してオオアマは混沌(抵抗勢力・鬼たち)にいる。ガイドでも解説されてましたが鬼たちは地方豪族の象徴ではないかとのことです。舞台上で鬼たちは存在しているが人の目には映らない黒衣(黒い網のアレを付けている)の存在になっています。
第二幕、鬼たちは鬼門をくぐったことで実態をもつ存在になっている。国家が転覆したのでオオアマや鬼たちは秩序の側、「人間」にまわったわけです。そして彼らは、争いに負けてしまった旧権力の人々を「内外」ではなく「上下」に位置づけることで秩序の安定を図ります。混沌側の存在(旧体制の権力者、戦争に負けた人たち)は国の外側の存在ではなく国内の下層の存在になってしまったんだね。
混沌は秩序の中に「下層」という名前で取り込まれてしまうが、そのことにより缶蹴りみたいなナンセンスな遊びでひっくり返るように不安定で曖昧だった秩序/混沌の世界バランスは、より秩序の側で固定されることになる。混沌側の人々は追われて殺されることで国の東西南北の境を定義して、耳男は鬼として逃げ続ける役割を与えられます。それが秩序の安定のために必要だから。

ここまで書くとだいたい「野田版 桜の森の満開の下」の②のレイヤーでどんなことが描かれているのか見えてくると思います。人間社会が形成されるにあたり、かつては表裏一体で曖昧で不安定だった秩序/混沌の世界は、社会の安定の名のもとに秩序が定義することで混沌の居場所はなくなっていきました。ルール、法律、常識の定義、階級ができ、それらのルールからからはみ出すもの、死、忌避すべきもの、鬼子、貧困者は下層のものとして整理整頓されて秩序の一部になったわけです。

大事なことは、混沌を混沌と定義したのはあくまで秩序の側にいた権力者であるということです。いま私たちが確かなものだと信じている善悪や常識の概念は当然普遍的な、人間ならだれでも持っているあたりまえのものと人は信じているけれど、あくまでオオアマのようないけすかね~人間(イケメン。染五郎さん演じるオオアマはいけすかね~のに愛らしいという絶妙のバランスでしたよ。別にオオアマは悪い奴ではないんだよね。いけすかね~だけで。)が作り出した定義にすぎないということです。これは昔の話じゃないですよね。いまもそうです。それが悪いことではないんだよ。約束がないと人は困ってしまうから。まあでも、その約束は誰かの都合で作られたものです。

③のレイヤーは物語の中で具体的に固有名詞を挙げて描かれてるわけではないんですけど、秩序/混沌の軸で社会の成立を描くなら演出のイメージが③のようになるのはある程度必然だろうと思います。鬼門を開く儀式でカニが円を描くのは天沼矛のことを思い出したし、ヒダの王たちは古き神々を思わせる。夜長姫に対して早寝姫という太陽の象徴を置くのもアマテラスかて思いますし、自転車で下っていくのは黄泉平坂かなと思いました。


ここからが本題の本題です。①の話。
こうして、秩序/混沌のバランスが変化していく時代の中で、耳男は夜長姫と出遭って創作者として目覚め、凋落し、再び目覚めます。
第一幕。夜長姫ったら耳男の異形の耳を指して笑い、しかもさして意味もなくその耳を両方ともちょん切り、人の死や残酷なものを眺めてはウフフと笑ってる(カワイイ)恐ろしい女なんですが、そんなめっちゃひどいことをしてくる相手に対して耳男は憎しみ恐れると同時に強く魅了されてしまう。夜長姫をあっと言わすために蛇を何百匹も殺して生き血をすすり菩薩なんて彫らずに一心不乱にバケモノの像を彫る。そのバケモノの像をみて、夜長姫はもう大変に喜んで(とてもカワイイ)素晴らしさを称えます。
一方で、第2幕。耳男が名声を得るためにオオアマの依頼で彫った、夜長姫の笑顔を模した菩薩は大変な凡作であるといわれてしまう。夜長姫は桜の森の満開の下で耳男に自身の鬼の角で胸を刺され、消え行く間際に耳男に言います。
「好きなものは、呪うか殺すか争うかしなければならない」

いい言葉やね~~~~(小並感)!
で、耳男が魅入られる夜長姫はなんなんだですが、まさに創作者にとっての「文学のふるさと」であるということです。夜長姫はにわかあめが降ってきて右往左往する人をじっとみつめているのが好き、といいます。にわかあめは戦争のようなもの、ともいいます。
突然の予想もしない出来事、それまでの自分が穏やかに過ごしていた日常がさっと色を変えた時、秩序が突然に崩れて混沌が顔を出す、その境に人々が直面した時の「まいったなあ」と語り合うその声は、誰かから与えられた意味もなく、自分が信じ込んでいた常識からも突き放され、ただただ透明な約束(モラル)のなさがある。そういうものを夜長姫は観察し愛している人なんだね。まあ、にわかあめならまだいいですけど、耳男の耳を切り落としたのも(カワイイ)、天井からつるされた蛇をみて大喜びなのも(とってもカワイイ)戦争で死んでいくキリキリ舞いの人を指さすのも(めちゃめちゃ愛らしい)ぜんぶ夜長姫にとっては同じことなのです。
耳男はもともと混沌をのぞき込む資質をもっていて(でっかい異形の耳は秩序の外側にある鬼子の象徴かな)混沌と秩序の境目に立つ夜長姫に美しさを見出すんだけど、同時にとても怖ろしい。そりゃそうだ。下り坂でブレーキを一切使わずにどこまでも堕ちていける夜長姫はある意味では人間を超克していて、人間は弱いので、堕ちきることなんてできないのだ。

このあたりは堕落論を読むとわかりよいと思います(ありがとう青空文庫……)。
http://www.aozora.gr.jp/cards/001095/files/42620_21407.html

しかし、夜長姫は言います。「好きなものは、呪うか殺すか争うかしなければならない」。
秩序の裏側には常に混沌がある。願いはあるいは呪いであり、菩薩はあるいはバケモノであり、夜長姫はあるいは鬼である。そのことを知らないで、本物の何かを作ることはできない。今信じている秩序を疑い、混沌を覗かなくってはいけないんだね。それはとっても恐ろしいことです。秩序の中からはつまはじきにされるから周りからは狂人だの鬼だのと蔑まれるし、不道徳だなんて怒られるかもしれないし、奥さんや旦那さんや子どもに縁を切られるかもしれないし、法律に裁かれるかもしれない。
しかし、「このふるさとの意識・自覚のないところに文学があろうとは思われない。文学のモラルも、その社会性も、このふるさとの上に生育したものでなければ、私は決して信用しない。」んだな。

ラストにおいて、秩序の世界から鬼として追われ続けることになった耳男は、桜の満開の下で花びらの間に消えてしまった夜長姫の衣を抱いて言います。ずっとここにいる。でもここからどこにでも行けると。
夜長姫もそうだったんだね多分。ずっと前から独りきり、桜の森の満開の下で、きみのことをずっと待っていたんだな耳男。


う~ん。よかったな。よかった。私は最後のシーン、桜の森に二人がたどり着いたあたりからずっと泣いていて、正直今これを書いても泣いている。その涙がなんなのかを言葉にするのはとても難しくて、そこにあるすべてが美しくて、静かで、透明で、切ないような何とも言えない気持ちです。それは私が安吾を読んで愛していた、その気持ちそのものだったんだよね。たぶんそれは確かに「ふるさと」だったんだと思う。そういう「本当のもの」が、何十年も経ってから、本人以外の多くの人間の手を介して、肉体を伴ったものとして現実に現れたことにただただ涙してしまったのでした。

あの~まだ続くんかよって話ですが、その3に続きます。次で最後です多分。④の話と、勘九郎くんと七之助くんの演技について。