日本で一番悪い奴ら(白石和彌/日本/2016) いっしょにしゃぶってGoodfellas

20160722 ユナイテッドシネマ豊洲にて鑑賞。すべりこみでした。公開期間短いよお~~。公式サイトはこちら。

www.nichiwaru.com

これはね~~結構楽しみにして観に行ったんですが、期待通り楽しかったです!心いっぱいにでろでろの綾野剛くんを期待して映画館を訪れ、でろでろの綾野剛くんで心満たされて映画館を後にしました。おすすめです。

 

白石監督作品は前作の『凶悪』を見ています。『凶悪』は原作を先に読んで震えあがって(めっちゃこわいぞ)、その後映画を見ました。原作は実際にあった事件を追いかけたルポで、ルポライターの主観が混じりつつも基本的には起こった出来事が描かれていくので、その原作を映画の『凶悪』がどの視点でスライスしたのかが、白石監督の作家性ということになると思います。『日本で一番悪い奴ら』も実録ものなので、白石監督の作家性ってどこにあるのかなあということを『凶悪』を思い出しながら観ていました。

 

で、『凶悪』を観たときに感じたのは、その視点のひとつは社会(それは家族でも常識でも法律でも仲間でもいいんですけど)という共同体からはみ出してしまったモンスターの悲哀です。完全に既存の枠からははみ出してしまっている須藤(ピエール瀧)とそれを利用する先生(リリー・フランキー)の、極北の共同体を夢見る戯れは、やってることは吐き気のするようなおぞましいことなんですけど、親子とも兄弟とも師弟とも恋人ともつかないような、何とも言えない関係の甘やかさがあるんですよね。それがまた気持ち悪いし怖いし哀しいわけだが。でも、なぜ怖いかっていうと、ちょっとその関係が魅力的だからだよね。

で、それに対照的に置かれている視点が、藤井(山田孝之)の気味の悪さです。藤井は自分の地に足の着きまくった共同体の生活(夢も希望も暖かさもないしみったれた生活)から逃れるように、まるで事件を追いかけることが自分の立つじめじめした地面をきれいに固めてくれるかのように、欲望に駆られて事件にすがりつき追いかける。

で、ラストにおいてそのいびつさを先生に看破されちゃうわけです。怖いね。

『凶悪』のラストは山田孝之の正面から、ス~ってカメラが後ろに引いていくシーンで終わるんだけど、最初見たときちょっと意外だったんだよね。引くのかあって。当然ながら藤井は映画を見に来ている観客でもあるわけで、あ、これ私か…って思うような感じで終わるのかなって思ったから、山田孝之が額縁に入って切り取られたみたいなカットで遠ざかって終わるのはちょっと意外でした。

そのカメラの遠ざかる印象が強くて、映画の着地点として、実際のモンスターは誰(何)なのかっていう話に明確に落とした感じがして、枠からはみ出たモンスターと枠にとらわれた人間の悲哀をめぐるセンチメンタルの切迫より、もうちょっと社会(共同体)概念とか倫理みたいなものについて撮りたい監督なのかなあと感じてました。どうなんだろう。この言葉が適切かどうかいまは自信がない。

 

前置きが長くなりまして、『日本で一番悪い奴ら』についてです。観終わったときにまず連想するのは、スコセッシの『ウルフ・オブ・ウォールストリート』とか『グッド・フェローズ』だと思います。多分みんな思うよね。『ウルフ・オブ・ウォールストリート』のマネーを、組織内の名誉と権力に置き換えればほぼまんまじゃないか。『凶悪』も基本的な構造は同じだと思うんですが、『日本で一番悪い奴ら』は『凶悪』よりもスーパーハッピータイムの狂騒に腰の軽さがあるので、ずっとスコセッシ映画に共通点が多いと感じます。

『凶悪』において山田孝之が背負っていた枠から出られない倦怠は影をひそめている。じゃあ一方で、ピエール瀧が『凶悪』で担っていたフランケンシュタインの悲哀を諸星(綾野剛)が背負っているかというと、そういうわけじゃない。諸星は自分が枠の外に足を出してるなんて夢にも思ってないんですよね。倫理的にも逸脱しているとも思っていない。最後まで国家権力の代行者としていいとこ「必要悪」を実行しているのだ、程度の自覚しかない。

狂騒にまくられて血を結ぶGoodfellasたちも一様にして枠の外に足を踏み出している自覚は乏しくて、その自覚のなさゆえに極北というよりは観光気分の流氷見物といった体で、ふわふわと腰が浮いたままその共同体の甘やかさとセンチメンタルもなんだかパッケージングされた高校生の青春もののような軽さで転がり落ちていく。

諸星たちには落ちている自覚はまったくないわけだけども、観客の社会倫理とはどんどん乖離していき、またその乖離の運びが巧みで、彼らがどこで踏み外したのか、段差の調節が大変加減のいい高さでした。映画が始まって50分経った今、彼らが踏み外していることは明白だが、じゃあどこで踏み外したのかといわれるとなんだかよくわからない、といった具合になっている。

そうして、はっと気づいた時にはみんなもう落とし穴の上で、アニメさながら足を空回りさせている。

あくまでGoodfellasたちは怪物をめぐる事象で、怪物そのものじゃない。じゃあ怪物は何だと言われると、「空洞」なんだな。組織の中で麻痺し、見失い、空洞化していく人たち。じゃあそれほど狂騒にまみれて、何がいいことあったのさ。お金が儲かったようでもなく、かけがえのない仲間ができたわけでもなく、出世をしたとしてそれでなんなのか。な~~~んにもいいことなんかない。からっぽだよ。でも人はその怪物に捉われてしまう。傍と気づいた時には落とし穴の上で項垂れ、狂騒の中でいつのまにやらため込んだ借金の支払いを迫られて首をくくる。狂騒が過ぎ去る地点に至って、空洞化してしまった人たちの肩に、観光なんかじゃない本当の極北が広がり、同時に先延ばしにしていた分だけ利子付きで倦怠がのしかかる。

 

白石監督は人間の罪の根がどこにあるかを探っている人なのかな。どうなのかな。監督作は2本目…ですよね?これからも実録物を撮るのかな。これからも楽しみです。

あと俳優のチョイスにいい具合のエロみがあるのでその意味でも楽しみです。セックスが撮れる監督ってやっぱ最高だよね~。『凶悪』のピエール瀧もすごくよかったんですが、今回の綾野剛くんを観たらまた違う良さがあって、撮れるセックスにバリエーションがあるのはとても素晴らしいことだな!と思いました。おっぱいもみもみ。

 

ちなみに、モデルになった道警の不祥事はこんな感じだそうです。そんなことまじでやったんかよほんとびっくりだよね。余談だが、私は本州以外に住んだことがないのだけれど、国境に面するというのはこういうことなのだなとしみじみ思いました。まったくはちゃめちゃだよ。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A8%B2%E8%91%89%E4%BA%8B%E4%BB%B6