ヒメアノ~ル(吉田恵輔/日本/2016) 終わりは突然に、だけどゆっくりやってくる

20161002 早稲田松竹にて鑑賞。

公式サイトはこちら

www.himeanole-movie.com

2本立ての2本目です。ディストラクション・ベイビーズを主な目的として見に行ったんですが、率直に申し上げてヒメアノールの方が面白かった…。嬉しい驚き。監督・脚本の吉田恵輔監督は過去撮ってる作品を観た感じ、いわゆる商業監督さんなのかと思っていたんですが、塚本組の照明さんでいらっしゃったのですね。そして森田剛くんは映画初主演なのかな。誠にもったいない話だよ。とてもよかったです。しかしこの内容でよくレイティングをR15+に収めたし、よく事務所もOK出したよね。製作に入ってたけど…本当にキワキワのラインを狙っていて、商業映画の興行として素直にイイネ!と思った。

 

まず、絶対に書かなくてはならんのはタイトルコールのすばらしさです。今年観たすべて映画の中で一番かっこよくて最高なアーバンタイトルだったしタイトルコールでした。音楽と一緒にタイトルが出てきたとき、あまりのかっこよさに思わず映画館で声をあげてしまったし、笑顔が止まらなかった。ぜひ、見た人にもあの感覚を味わってほしいので詳しくはかかないんだけど、本当によかった。最高。近年ではガーディアンズオブギャラクシーに匹敵するタイトルコールのかっこよさだった。

古谷実の原作は未読なんですが、ヒミズシガテラ、わにとかげきすあたりは読んでいます。好きです。で、映画化に際してすごく上手に古谷実漫画のテンションを映像にしていてすごく感心してしまった。日常/非日常、生(性)/死、平穏/不穏の裏表が笑いとシニカルと暴力と諦観で描かれていくっていうのが古谷作品の基本的なスタイルだと思うんだけど、それを演技と演出でうまく表現している。岡田(濱田岳)の日常が非常に漫画的な演出で描かれてるのに対し、森田くん(森田剛)の日常は等身大で実寸大で劇画なんですよね。デフォルメされていなくて輪郭がぶれている。森田の初登場時、カフェで項垂れてタバコを吸っている彼が、お~岡田く~んと発声した瞬間に、違和感の隙間から不穏が流れ出す。その後のベンチで喫煙を認めないシーンも、撮り方によっては笑えるはずなんだよね。でも演出と演技が劇画だからその不条理と滑稽さが怖い。その点において森田くんの演技も出色だったと思います。

もう一つ素晴らしかったのはゴア表現で、「死んでいる」じゃなくて「死んでいく」が見えるのがとてもよかった。生が徐々に失われる過程とセックスが重なって、それが森田の自慰行為に結実するんですけど、まあ見事だなと思った。特に素晴らしいなと思ったのは、森田が久美子を撲殺しているシーン(あれをお尻側からあの距離で撮るのすげえ)に岡田とユカ(佐津川愛美)のセックス(後背位です。だよね。)が差し込まれるシーンと、警官の胸に包丁(万能包丁イェ―。)をゆっくり差し込むシーン、あとこれは過程というわけじゃないけど、過去、草むらでいじめっこを殺したあとに森田が自慰するシーンでした。森田くんの自慰シーンは全体的によかったよね。教室での理不尽な世界への諦観と平熱の視線もすごくよかった。

で、他にも滑稽と残酷の絶妙なバランスとかいいところたくさんあったんですが、最後に結末について。

理不尽に倫理を剥奪されて世界の外側に弾き飛ばされてしまった森田が、それならそれで仕方ないから俺は俺のルールで生きるそうして奪ったのはお前たちだと言わんばかりに繰り返す虐殺がどこに行きつくのかについて、彼を名前のない怪物として開放する(あらすじ見た感じ、原作はこっちの解釈なのかな)のではなく名前のある(失った)人間として帰結させたわけなんだけど、それについて岡田がした所業を森田が忘れているとか、なんでユカを狙ったのか全然描かれないとか、犬をよけようとしたところだとか、そんなあたりで森田くんを、私たちが安心するための装置の中に閉じ込めてしまわないようぎりぎり踏ん張ったのかなと思っています。最大限の譲歩だし、そのおかげで森田くんの最後の欠損がより活きたし、なにより森田くんの最後の演技も活きたと思います。

とにかくいろんな面でバランスの良い映画だったし、この俳優を使ってこの原作でこの題材を撮るっていう条件を最大限に活かした商業映画でもあったなと思った。

まだわからないけど、多分私の今年の10本に入ると思う。

ディストラクション・ベイビーズ(真利子哲也/日本/2016) ノイズがおれをかきたてる

20161002 早稲田松竹にて二本立てで鑑賞。

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distraction-babies.com

 

今年は意外なくらい邦画を見ています。豊作なのかな?例年がわからないから比較できないですが、見に行きたいと思う映画が多いのは良いことです。ちげえねえ。

ヒメアノ~ルとの二本立てで、こちらを先に観ました。前情報なしだったんですが、冒頭のノイズを聴いた瞬間になるほど向井秀徳、そして菅田将暉が登場したあたりまでを見て、なるほどザ・ワールド・イズ・マインとなりました。

 

泰良(柳楽優弥)の暴力は、なんの前提も言い訳も理由もなく、ただ砂を指でこすり合わせたときのジャリジャリという音と感触のようにノイズとしてくすぶり続けて、衝動は衝動でそれ以上でもそれ以下でもなく、ただ純粋で自由で透明な暴力でありつづける。

裕也(菅田将暉)の暴力が女性や老人に向けられるその卑小さは、泰良の暴力の透明さ・純粋さをより際立たせる。だけど、同時に裕也がもつ自己顕示欲や浅はかさや衝動も多分ノイズには違いないんだよね。その意味では裕也のノイズと泰良のノイズが一時的に共鳴する物語といえる(多分、だから泰良は裕也を殴らない)。

泰良の弟、将太(村上虹郎)も対照的に描かれる一人で、彼もまた泰良とノイズを共鳴させてるんだけど、彼のノイズは世間一般(育ての親や警察、友人、テレビに映る人々)の無神経な侮蔑、偏見、無理解との軋轢のために生まれるノイズです。上記の二人とはまた違う。

最後に、ともに逃避行をつづける那奈(小松奈菜)のノイズがある。ただ、彼女の扱いはちょっと難しかったなと感じました。泰良が彼女にむける「どやった?」は、彼女の生存本能とか、むき出しに触れてしまったものへの興味ってことだと思うんだけど、ちょっと女性性というものに頼りすぎではないかいと思ったし、女性性という根拠に頼るなら性描写はもう少し頑張って欲しかった。結果的に、彼女のノイズの描写の粗さが泰良の興味を少し軽率に見せてしまっているようにみえた。ワールド・イズ・マインもマリアはちょっと微妙だもんね。女のノイズを描くのは男性にとって難しいんだろうか。どうなんだろうか、私は女だからよくわかりません。

で、この手の物語は終わらせるのがすごく難しい題材で、じゃあ泰良の純粋な衝動はどこへ向かうのか。私は寄る辺なく放浪し続けるしかないと思うのだけれど、彼は故郷へ帰るんだよね。それは彼の衝動は社会の外側にある異常行動のように見えながら実際は内包されているものだって結論だと思う。

ただ、その結論ならその結論でいいんですが、単純に映画のストーリーとしてみると、戻ってくるならなんで出てったんやという疑問がひっかかちゃってですね。かなり表層的な部分で恐縮なのだが、物語としての合理性に欠けているなと感じた瞬間に我に返ってしまって、泰良の衝動の美しさにいまいち没入しきれなかったのでした。

あらゆる意味で若い映画だなと思った。真利子監督の今後が楽しみです。

 

俳優たちは軒並みすばらしくて甲乙つけがたいんですが、特に私は村上虹郎くんの美しさに目を見張りました。彼は兄を追いつつ軋轢の中でもがきながら段々自分の中のノイズを自覚していくんだけど、時々の眼差しや声の瑞々しさが素晴らしくて、特に後半、映画の重心はむしろ彼のノイズが軸足となっていく。それは演出上の意図したところなのか、結果的にそうなっちゃったのかわからないんだけど、泰良を食ってしまった印象を受けたのは事実です。ラストで泰良に神通力を感じないのも、そのせいもあるかもしれないな。どうかな…そう考えると、柳楽くんはちょっと割を食ってしまったかなと思います。でも柳楽くんもよかったんだよ。松山の繁華街をあてどなく独りでうろつくとき、雨ざらしになったブロック塀や錆びた鉄門みたいな色してるんだよ。すごく綺麗だった。

菅田くんも素敵にみみっちくって切実だったんだけれど、菅田くんが着ると何日も洗ってない工員の臭い作業着もしゃれたジャケットに見えちゃうんだなと思いました。

君の名は。(新海誠/日本/2016) 僕たちは忘れ続ける

20161005 TOHOシネマズ小田原にて鑑賞。

公式サイトはこちら

www.kiminona.com

 

久しぶりにアニメ映画を見ました。新海誠監督作は秒速5センチメートルをみています。背景がきれいだよね(定番の感想)。背景は絵画的なのに人物は小説みたいだなっていう印象を持っていました。ちょっとちぐはぐな感じ。それがいいのかな。

今作もそのへんの居心地の悪さというか、ちぐはぐな印象はぬぐえなかったです。背景や空や人物の所作は滑らかな肌触りなんだけど、人物の表情や台詞、感情表現だけが浮いているというか、デフォルメされて角ばっているというか、滑らかさがない。デフォルメされている分見やすくはなっているんだろうけど、私には表現のダブルスタンダードのように思えてしまって、最初から最後までお尻のすわりが悪かったです。あとOPでの、大仰に手を伸ばしたりというアニメ的表現になんか耐えられなかったんだよね(だって実際にそんなことなかなかしないじゃんという気持ち)。それは私がアニメ的表現の文脈に慣れてないからかもしれないですし、新海監督は違和感を感じさせるためにわざとそうしているのかもしれないです。

で、男の子と女の子が引き継がれて紡がれてきた糸の結び目になるという物語についてですが、実はあんまり感情移入も集中もできなかった。というか、多分この映画の本当の旨みは結び目にはなくて、多分「忘却」にある。「忘れないこと」ではなくて「忘れてしまうこと」にある。

どれだけ強い結び目であれと思っても、過去はすべて記憶のなかで変質し、失われ、それに抗うために人は何か(紐とか、文字とか、儀式とか)を依代にしようとするんだけど、それに頼ってすらも忘却の力に抗うことは難しい。その消失にこそセンチメンタルの結晶があって、瞬間、その結晶はこの映画の信じられないほど美しい星空のように輝く。なので、本来この映画は雪の日の東京の歩道橋ですれ違う二人のシーンで終わってよかったし、そこから後ろは大衆に向けたサービスというか、蛇足かなと思いました。ちょっとだらしないよね、あのラストシーンは。

でもこれくらいの方がお客さんは入るんだろうと思います。実際、私が見た回は平日の昼でしたが、老若男女問わず結構なお客さんが入っていました。私も母と一緒にみました。

しかしながら、母の開口一番の感想は、「なんか難しかったね…」でした。あんなにわざとらしく性をデフォルメしてがに股と内股にしても駄目なわけよ。多分、アニメ文脈をそもそも理解してないと???ってなる部分があるんだろうと思う。わたしが感じている違和感もそれなのかな。背景がきれいなアニメ、とは思えない。背景と人物のレギュレーションが一致していないアニメ、という感じがする。とにかく、大衆に受け入れられるって難しいものだなと思いました。本当に。

あと民俗学者が政治家になるって設定は違和感ありすぎた。民族学者ならともかく民俗学者だよね?お父さんはもうちょっとなんとかならなかっただろうか。

 

ここからは多分映画の本筋からは離れる…のかな離れないのかな。ある程度意図されているとは思うけど、メインストーリーであるボーイミーツガールとは違う話です。

実は、町を救うために学校放送で避難を呼びかけるあたりから、東日本大震災当時のことを思い出して涙が止まらなくなり、その先の話があまり頭に入ってきませんでした。災害描写は明らかに震災を意識していると思うので、そこまで的外れな感慨ではないと思います。

断わっておくと、私は当時東京で暮らしていたので、まったく被災はしていません。私が思い出していた震災は報道の中で流れる遠くの現実で、震災そのものではないです。ただ、私がそのときそれを報道で見ていたという体験が私の震災体験で、東京に住む瀧(神木隆之介)の立場とすごく重なって、なんかつらくなっちゃったんですよね。

東北で震災があったあの日、私は会社で仕事をしてました。これといった実害はなかったのですが、電話も通じず、テレビもなく、電車も止まっているので自宅に帰れず、同僚と歩いていける距離にある中華料理屋で時間をつぶしていました。その中華料理屋のテレビに映る映像で、初めてどこで何が起こったのか、そのごく一部を知ったのでした。

その映像は一面に広がる田んぼのなかに津波が押し寄せてきて、逃げて走る軽トラックがのみこまれる映像でした。そのトラックに乗っていた人の生死はわかりません。でもそのトラックを飲み込んだ波はそのまま住宅地にぶつかって進んでいきました。その映像が流れたとき、普段だったら会話が飛び交ってにぎやかな中華料理屋は、ほぼ満席だったのに静まり返っていました。

震災の当日やその後、何をしたのか、どうやって生活していたか、何を考えていたのか、今の私はほとんど覚えてないのですが、その映像を見たときのことだけは強く覚えています。

映画の中で、瀧は3年前のその時につながって、その悲劇に介入することができます。でも震災を経験したとき、私は起こってしまったそのことに何も介入することができず、もう起こってしまった人々の死を、テレビの向こうから眺めていることしかできなかった。

彗星が落ちたあの町にいた人たちは、実際には死んでいたはずで、それに何の介入もできない無力さを思って、なんだかその当時を思い出して辛くなったのでした。これは私の震災についての体験の話であって、もっとつらい人がいたとか、できることをやればいいとか、そういう話じゃないです。テレビの向こうから流れてくる、もう起こってしまって巻き戻しができない人の死をみるという体験についての話です。

 

楽しい記憶や日々の記憶はどんどん零れ落ちて忘れてしまうのに、つらい記憶はずっと長持ちする。それは、人がそれを紡いで伝えて、いつかくる危機を避けるためのリスク管理の装置なんだろうか。君の名は。という映画もその紡がれた糸の内の1本ということかもしれないです。

夏の思い出と8~9月にみた映画のこと/母と暮らせば、日本の一番長い日、シン・ゴジラ

気が付いたら前回の更新から2か月です。よくない時期でした。すこしだらりとしていた。サッカーのインハイのよもやま話を書こうと思ったのですが、観戦環境がわりと過酷でそんな元気はありませんでした。サンフレッチェサポの皆さんはホームの試合をあそこまで見に行っているのかと思うと……まじで広島市は早急にスタジアムつくってあげて。マジで。

 

インハイの結果は市立船橋の優勝。準々決勝から3試合市船の試合を見ましたが、今年の市船は大人のチームだな、としみじみしました。すでにJリーグ内定している選手もちらほらですね。去年からかなり注目されていた杉岡くんはもちろん、原くんや高くんも内定が出ているようで…育成年代で特定のチームを追いかけてみるようになったのは最近のことなので、選手の成長を見届けるのはこんな感じなんだなあと思っています。個人的には原くんがすごく好きなタイプのプレーヤーなので、ぜひ東京五輪なんかもね、みてみたいよね。育成年代を見ているとこんな楽しみもあるのだなあ。

冬に向けてみんな怪我なく頑張ってほしいなと祈っています。課題はやっぱりどう点を取るかってとこで、個人的には6番の阿久津くんの成長曲線はチームにダイレクトに影響を与えそうだなと思っている。インハイですごく積極的だなって感じたので、そこでボールを引き受けて時間を創れるようになったらすごくチーム全体が面白くなりそうだな。あとは前線の選手で誰が出てくるか…多分これから冬にかけて新たな選手が試合に出ることも増えるでしょうから、それも含めて冬の選手権が楽しみです。

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すっかり時間が経ってしまったけど、8~9月の間は映画を3本しか見ませんでした。なんだかんだ、活動力が落ちていたんだな。あとサッカーをみていたのであまり映画を見に行かなかった。メモ程度に。

 

8月は新文芸坐さんの戦争映画特集で2本。母と暮らせばと日本の一番長い日(岡本喜八監督版)を見ました。

 

母と暮らせば(山田洋次/2015/日本)

新文芸坐反戦反核映画祭にて鑑賞。鑑賞日は忘れてしまった…。

公式サイトはこちら

hahatokuraseba.jp

これは二宮くんを見に行きました。そして小百合さんに触れあったことがなかったので、スクリーンで見てみようという興味でした。二宮くんは蜷川さんの青い炎以来。去年、キネ旬の主演男優受賞時の表彰式でご本人を遠目からみたんだけど、彼はあれだね。落語家みたいなしゃべり方する人だよね。

結論から言うと、ラストがグロテスクすぎて困惑した映画でした。伸子(吉永小百合)の死後、教会以降の描写はかなり共感しがたいつくりだった。あれはどういうつもりでああしたんだろう。グロテスクさを狙ったものなんだろうかそうじゃないんだろうか…。自己憐憫のモンスター味を感じてしまった。

山田洋二監督とあまり相性が良くないのかもしれないです。きっとそれがいいんだろうけど、演出が型通りすぎてちょっと白けてしまうんだな。テンションについていけず。

浩二(二宮和也)はまさに迎えに来た天使で、彼の微笑みはもう半分死んでるんじゃないかみたいな透明さがあってすごく魅力的。若くして死ぬみたいな香りがする(ご本人にはぜひ長生きしてほしい。きっといいおじいちゃん俳優になると思うよ)。浩二の胴体が隠れている/フレーム外で、四肢だけが見えているシーンがいくつかあって、その点がフェチズムを感じて一番印象的だった。美しかったです。

小百合さまの神通力は私にはよくわからなかったんだが、私の隣に座っていたおばあちゃんが号泣してらして、きっとそういうものなのだろうなと思った。整理券が出るほどの行列で、多分観客の中では私が一番若かったです。同じ映画を見るでも、作品と場所が違うだけでこんなに違うフィールドが広がってるんだなあ。

 

日本の一番長い日(岡本喜八/1967/日本)

新文芸坐反戦反核映画祭にて鑑賞。同じく鑑賞日は忘れてしまった。観たらすぐ感想を書こう。

予告版はこちら

www.youtube.com

シン・ゴジラの予習も含めて見に行きました。日本の戦争映画を見るのが苦手で避けてたんですが、これはめ~~~~~っちゃ面白かったし、これまで見てなかったことを恥ずかしいって思った。扱ってる題材のテンションの高さに対して、過剰な感情の波を抑えた淡々として冷たいカメラの距離にしびれたし、にもかかわらずドキュメンタリタッチでは全くない。それは創られた物語であるっていう映画的な美しさもしっかりとあって、そのバランスにくらくらする。

私が日本の戦争映画に腰が引けてしまうのはその被害感情の扱い方で、日本が戦争をしたっていう事実への批評精神が希薄だったりバイアスをフラットにしようと努力したあとが見られなかったりした日には、どうも観るのに耐えられない。で、リスクを避けようとして、個人の物語を題材にして戦争の極々一部を拡大している作品(母と暮らせばはこれですね。野火も面白かったけど、アプローチとしてはこれ)も意義は理解しますがなんとなく逃げを感じてしまう。

しかし、そういう意味で岡本喜八監督版の日本の一番長い日は体制側で起こったことを描いている映画なのにものすごくフラット…フラットではないが、かかるバイアスを理解して話が作られているというか、そういう印象でした。戦後まもなくこれを撮ったのすごいな…って話をツイッターでしたら、フォロワーさんがこの映画は代打で監督しているので、ぜひ『肉弾』をあわせて観てくださいと教えていただきました。観ます。

映画中で国体っていう言葉が出てきて、それはアイデンティティと言い換えていいと思いますが、自分が生きている国についてあらためて考えたよね。政治思想的な話になるのでこれ以上はここに書かないですが、地理的状況とか、周辺地域との関係とか、世界的な動きとか、いろんな要因が重なって自分の国はある一つの道を辿って戦争を経験して敗戦国になって…しかしなぜ戦争をしたのかってことについて解きほぐすのはすごく難しくて、もちろん国民がそれを選択したことは間違いないんだけど、じゃあその時々の最善の選択がなんなのかって答えを出すのは多分すごく難しい。遅れてきた戦後がさしせまった今見ると、すごくタイムリーな映画だなと思いました。

私たちは過去からできるだけ情報を集めて、その情報のバイアスを理解して、現在の状況を鑑みて、自分が採用する情報を決断して、できるだけ最善と思われる道を選ぶしかない。すっごく難しいことだよね。全然単純じゃない。戦争が他人の物を奪うためだけに起きることだったら、ヒトラーだって間違えなかったかもしれないのにね。

この映画をエンターテイメントとして楽しんだ一面から言うと、私は外務省の人たちと宮内省の人たちが好きで、それは彼らがある意味では熱狂の外にいるからだと思います。これはシン・ゴジラにつながる話だね。

ちなみに、私がいままで見た中で一番好きな映画の1本はアンダーグラウンドエミール・クストリッツァ/1995)で、ユーゴスラヴィアの内戦を扱った映画です。内戦が継続されている時期に発表されているのは、本当にすごいことだなっていつも思う。めっちゃ好きな映画です。

 

シン・ゴジラ庵野秀明/2016/日本)

ユナイテッドシネマ豊島園にて鑑賞。日付は忘(略)

公式サイトはこちら

www.shin-godzilla.jp

これはもう一回観に行くチャンスがあるかもしれないので、もう一回観たらちゃんと独立した感想を書きます。率直にいうと面白かったよ~~~庵野監督すごいがんばったなあ。

結構、福島の原発事故の影響が色濃いって論評を事前に目にしたのですが、ゴジラは自然災害じゃないしな…そして福島原発が人災だったかどうかって話ですけど、人災だったとしても、災害のエネルギー源が自然発生の部分が大きすぎないかい?ということもあり、わたしは、シン・ゴジラは戦争映画、というか戦後映画として観ました。主に、国体/アイデンティティについて語った映画って意味です。岡本喜八監督版の日本の一番長い日には話の構造と特に演出面でものすごく影響を受けている映画だと思うので、余計にそう思うのかもしれない。予習していたのでなるほどという感じでした。前半のなにかと会議してるあたりはほぼ踏襲じゃないか。

あと、エヴァに似てるっていう感想も見たけど、そもそもエヴァヤシマ作戦ってめっちゃ初代ゴジラの京浜地区攻防戦の下りだし、ゴジラが啓示的な災厄なのも祝福も破壊も持ち合わせた存在なのも初代ゴジラだもんね。なので、エヴァっぽいというよりか初代ゴジラっぽいってことでいいんじゃないかと思いました。

もう一つ、すごく印象的だったのは「仕事をしましょう」という言葉でした。昨今の風潮には逆流しているし美徳とするには功罪があるのはわかるんですが、率直に一番胸を打つ部分だったんだよね。多分それが、私が国家のアイデンティティとして最も手に掴んでいて、それでいて昔から変わらずあると感じているものだからだと思う。

働きマンに出てきたボケの花の回を思い出し、福澤諭吉福澤心訓を思い出したりしていました。真摯だなって思うよ。庵野さんは安野さんと結婚して大事なものをもらったんだなあと思いました。

なお、私の推し巨災対メンバーは厚生労働省医政局研究開発振興課長の森文哉(津田寛治)ですよろしくどうぞ。ごちそうさまでしたっ!

フットボールと私(その1出会い編)

2016年7月30日。30分前に31日になりました。今、私はお台場にある某銭湯にいます。隣では若い女子どもの恋愛暴露話がさく裂しています。わたしはそっとイヤホンをつけてROTH BART BARONを聞き始めました。現在活動中の日本のバンドの中でROTH BART BARONが一等好きです。

このようなよくわからない状況ではありますが、やんごとなき事情で朝の3時半までここで起きている必要があるため、私はこの記事を書き始めました。何を書くかはノープランです。とりあえず、私がここに滞在して早朝まで起きていなければならないやんごとなき事情にちなんで、「フットボールと私」について書きたいと思います。深夜なのにここはとても五月蠅い。

多分一回ではとても書ききれないので、今回は「出会い編」ということにしておきます。こんなことを書いて何になるのかなと私も思っていますが、特に何もならないです。もし、まったくスポーツに興味のない人をフットボール好きにさせたいという方がいたら、人がフットボールを好きになるモデルケースの一つとして参考にしていただきたいです。あんまり一般的ではないかもしれんが…。

 

私はサッカーを見るのが好きです。めんどくさいのでもうサッカーって書きます。私がサッカーを熱心に見るようになったのは結構最近のことで、2008年に生まれて初めて生観戦をしたことがきっかけです。でもかれこれ8年か。もうすぐ10周年だね。

2008年に至るまで、私はサッカーはおろか、スポーツ全般に対して何の興味も持たずに生きてきました。日韓ワールドカップ開催時に大学生という超恵まれた時代を生きていたというのに。当時の盛り上がりは大変なもので、私の大学でも試合中継をみんなが携帯で見すぎて授業どころでなくなり休講になったりしていました。しかしながら、私は休講になったのをいいことに家で寝ていたようなタイプの人間だったのよね。

そんなわけなので、もちろんドイツW杯の落胆も知らないんだなこれが。そもそもさほど代表に興味がないのですが、玉ちゃんがブラジルを本気にさせたゴールもQBKジーコ神も、私の中では年表に書かれた出来事のように薄っぺらな知識です。こうして考えると私は結構サッカーとラッキーな出会い方をしているかもしれない。ドイツW杯の落胆がいかに日本のサッカー好きにトラウマを与えたかは一応理解しているつもりです。あ~よかった。そのころサッカーに興味がなくて。

2008年、私が生まれて初めて現地で観戦した試合は、天皇杯準決勝、国立競技場で見たガンバ大阪横浜Fマリノスの試合でした。当時、サッカー大好きマンであるところの夫(そのころは夫ではなかったが)は、私にサッカーを見せようと録画した試合を見せるなどのアプローチでなにかと頑張っていました。しかし、私はいまいちテレビで観るサッカーに対して、面白みを感じられなかったんだよね。それは国内・国外問わずです。当時、CL決勝のマンUチェルシーを見せられたことを覚えています。その試合はテレビで観たことがある中では一番面白いなと思ったのですが、やっぱりピンと来なかった。でもまあ熱心に勧められたので、一回くらい見に行くかと思って天皇杯準決勝に連れられていったのでした。

 

初めてサッカーを生観戦したときの衝撃は今でも覚えています。

正直、試合内容自体はガンバが勝ったことと、ヤットくんが素人目に見てもずば抜けて上手いんだけど、センターサークル周りをうろうろしてばかりだったこと(ACL優勝した年だったし、過密日程で疲れていたんだね多分)しか覚えていないです。あと隼磨がしゃかりき頑張っていたな。今思えば、そのとき彼はマリノスとのあれこれで思うところがあったのだろう。懐かしいね。

当時、私が試合から受けた衝撃は試合内容に関することではなく、サッカーというゲームそのものについてでした。それは、

テレビで観るサッカーと生で観るサッカーって全然違うものじゃん!

という衝撃です。いや中継なんだから同じものやろということはわかっている。厳密にいうと、テレビで観るだけでは、ピッチ上でどういうことが行われているのかが理解できなかったんですな。この事象は生観戦するようになってからすこし緩和されましたが、今でも生で見たことがないチームの試合をテレビで観るのはあんまり得意ではないです。鍛錬したらもっと理解できるんだと思うのですけど、なんかいまいち何をやってるのかが理解できないの。何故なのでしょうか。

ともかく、初の生観戦のときに感じた「サッカーとはこういうものだったのか!」という気持ちを強く覚えています。多分、西野政権下全盛期のガンバを見たことも影響していますが、そのとき私が感じたのは、選手が結び目、ボールの動きが糸で、そうしてできた「網」をピッチ全体に這わせて、その「網」を切らさないようにゴールまで届けるのがサッカーというゲームなんだな、ということでした。「網」は有機的にゆらゆら動くんだけど、ちょっとアメーバみたいだなって思ったことを覚えている。

「網」は結び目と糸で出来ていて、結び目の強度(選手のクオリティ)と結び目と結び目の間の距離(選手間の距離)によって、糸の強度が影響を受ける。ある程度は結び目の強度でフォローできるけど、基本的には距離が遠くなればなるほど糸は細くなって強度が落ちる。あまり糸の強度が落ちるとちぎれてしまう(攻守が入れ替わる)。さらにいうなら、相手の糸の強度を下げるように働きかけることが守備であり、守備を躱して糸の強度を保ちゴールを目指すのが攻撃です。

全盛期のガンバ大阪はパスサッカーの鬼だったので、試合を見てこの感想を私が抱いたのは自然なことだとも思います。しかしながら、どんな戦術を取ろうが、フィールドプレーヤーがボールを蹴って運び、ボールをゴールに入れるのがサッカーなので、細かい差異は当然あれど、どんなチームにもだいたい共通する考え方だと思っています。

これって今思うと、サッカーにおけるスペースの概念のことだよね。

テレビで観ていた時、私はサッカーというゲームはどちらかというとボールが存在する局面局面の選手の動きの連続でゲームが成立していると考えていた。もちろんそれも重要な要素です。しかしそれと同じくらいに、サッカーにおいては、いかに糸の強度を上げるか、そのためのスペースを創る/潰すか、という要素が重要であることを、生観戦で初めてすこし理解できたんだなこれが。

そして、「網」を維持し、糸の強度を上げるため、ボールを持っていない選手の駆け引きが、組織的にかつ絶え間なく行われていることも生観戦で初めて理解しました。なんでテレビだとわからないのかしら。それはボールがないところはあんまりテレビに映らないからだね多分。

 

ともかくも初の生観戦にて衝撃を受けた私は思いました。

サッカーってめっちゃ面白いやん。

この後、サッカーを見続けていく中で、何度かサッカーってめっちゃ面白いやんポイントを経験していくのですが、やっぱり初観戦時のめっちゃ面白いやんインパクトは忘れがたいものです。

 

こうして初観戦にしてサッカーにおけるスペースの概念をうっすら理解し、サッカーの楽しさを知った私に、追い打ちのように運命の出会いがやってきます。私のサッカー好きを決定つけたスーパースター登場の話はまた次回に。

今後もこのようにしてときどきサッカーの話を書いていきたいと思います。俺得。

 

お風呂屋さんでどんちゃん騒ぎをしていた若人たちもゾンビのように寝始めました。ところで、私はなぜこんな時間にこんなところにいるのかというと、実は今から成田に行って広島行きの飛行機に乗るからです。

そう、今からインターハイを見に行くんだよ!!!サッカー男子の準々決勝~決勝を見てきます!私のひいきは市立船橋高校。何の縁もゆかりもありませんが応援しています。本当はその話を書こうと思ったんだけど、全然たどり着く気がしなかったよね。次は「フットボールと私」などというどうでもいい話はやめて、インハイ広島観戦記をゆる~く書きたいと思います。俺得。

 

日本で一番悪い奴ら(白石和彌/日本/2016) いっしょにしゃぶってGoodfellas

20160722 ユナイテッドシネマ豊洲にて鑑賞。すべりこみでした。公開期間短いよお~~。公式サイトはこちら。

www.nichiwaru.com

これはね~~結構楽しみにして観に行ったんですが、期待通り楽しかったです!心いっぱいにでろでろの綾野剛くんを期待して映画館を訪れ、でろでろの綾野剛くんで心満たされて映画館を後にしました。おすすめです。

 

白石監督作品は前作の『凶悪』を見ています。『凶悪』は原作を先に読んで震えあがって(めっちゃこわいぞ)、その後映画を見ました。原作は実際にあった事件を追いかけたルポで、ルポライターの主観が混じりつつも基本的には起こった出来事が描かれていくので、その原作を映画の『凶悪』がどの視点でスライスしたのかが、白石監督の作家性ということになると思います。『日本で一番悪い奴ら』も実録ものなので、白石監督の作家性ってどこにあるのかなあということを『凶悪』を思い出しながら観ていました。

 

で、『凶悪』を観たときに感じたのは、その視点のひとつは社会(それは家族でも常識でも法律でも仲間でもいいんですけど)という共同体からはみ出してしまったモンスターの悲哀です。完全に既存の枠からははみ出してしまっている須藤(ピエール瀧)とそれを利用する先生(リリー・フランキー)の、極北の共同体を夢見る戯れは、やってることは吐き気のするようなおぞましいことなんですけど、親子とも兄弟とも師弟とも恋人ともつかないような、何とも言えない関係の甘やかさがあるんですよね。それがまた気持ち悪いし怖いし哀しいわけだが。でも、なぜ怖いかっていうと、ちょっとその関係が魅力的だからだよね。

で、それに対照的に置かれている視点が、藤井(山田孝之)の気味の悪さです。藤井は自分の地に足の着きまくった共同体の生活(夢も希望も暖かさもないしみったれた生活)から逃れるように、まるで事件を追いかけることが自分の立つじめじめした地面をきれいに固めてくれるかのように、欲望に駆られて事件にすがりつき追いかける。

で、ラストにおいてそのいびつさを先生に看破されちゃうわけです。怖いね。

『凶悪』のラストは山田孝之の正面から、ス~ってカメラが後ろに引いていくシーンで終わるんだけど、最初見たときちょっと意外だったんだよね。引くのかあって。当然ながら藤井は映画を見に来ている観客でもあるわけで、あ、これ私か…って思うような感じで終わるのかなって思ったから、山田孝之が額縁に入って切り取られたみたいなカットで遠ざかって終わるのはちょっと意外でした。

そのカメラの遠ざかる印象が強くて、映画の着地点として、実際のモンスターは誰(何)なのかっていう話に明確に落とした感じがして、枠からはみ出たモンスターと枠にとらわれた人間の悲哀をめぐるセンチメンタルの切迫より、もうちょっと社会(共同体)概念とか倫理みたいなものについて撮りたい監督なのかなあと感じてました。どうなんだろう。この言葉が適切かどうかいまは自信がない。

 

前置きが長くなりまして、『日本で一番悪い奴ら』についてです。観終わったときにまず連想するのは、スコセッシの『ウルフ・オブ・ウォールストリート』とか『グッド・フェローズ』だと思います。多分みんな思うよね。『ウルフ・オブ・ウォールストリート』のマネーを、組織内の名誉と権力に置き換えればほぼまんまじゃないか。『凶悪』も基本的な構造は同じだと思うんですが、『日本で一番悪い奴ら』は『凶悪』よりもスーパーハッピータイムの狂騒に腰の軽さがあるので、ずっとスコセッシ映画に共通点が多いと感じます。

『凶悪』において山田孝之が背負っていた枠から出られない倦怠は影をひそめている。じゃあ一方で、ピエール瀧が『凶悪』で担っていたフランケンシュタインの悲哀を諸星(綾野剛)が背負っているかというと、そういうわけじゃない。諸星は自分が枠の外に足を出してるなんて夢にも思ってないんですよね。倫理的にも逸脱しているとも思っていない。最後まで国家権力の代行者としていいとこ「必要悪」を実行しているのだ、程度の自覚しかない。

狂騒にまくられて血を結ぶGoodfellasたちも一様にして枠の外に足を踏み出している自覚は乏しくて、その自覚のなさゆえに極北というよりは観光気分の流氷見物といった体で、ふわふわと腰が浮いたままその共同体の甘やかさとセンチメンタルもなんだかパッケージングされた高校生の青春もののような軽さで転がり落ちていく。

諸星たちには落ちている自覚はまったくないわけだけども、観客の社会倫理とはどんどん乖離していき、またその乖離の運びが巧みで、彼らがどこで踏み外したのか、段差の調節が大変加減のいい高さでした。映画が始まって50分経った今、彼らが踏み外していることは明白だが、じゃあどこで踏み外したのかといわれるとなんだかよくわからない、といった具合になっている。

そうして、はっと気づいた時にはみんなもう落とし穴の上で、アニメさながら足を空回りさせている。

あくまでGoodfellasたちは怪物をめぐる事象で、怪物そのものじゃない。じゃあ怪物は何だと言われると、「空洞」なんだな。組織の中で麻痺し、見失い、空洞化していく人たち。じゃあそれほど狂騒にまみれて、何がいいことあったのさ。お金が儲かったようでもなく、かけがえのない仲間ができたわけでもなく、出世をしたとしてそれでなんなのか。な~~~んにもいいことなんかない。からっぽだよ。でも人はその怪物に捉われてしまう。傍と気づいた時には落とし穴の上で項垂れ、狂騒の中でいつのまにやらため込んだ借金の支払いを迫られて首をくくる。狂騒が過ぎ去る地点に至って、空洞化してしまった人たちの肩に、観光なんかじゃない本当の極北が広がり、同時に先延ばしにしていた分だけ利子付きで倦怠がのしかかる。

 

白石監督は人間の罪の根がどこにあるかを探っている人なのかな。どうなのかな。監督作は2本目…ですよね?これからも実録物を撮るのかな。これからも楽しみです。

あと俳優のチョイスにいい具合のエロみがあるのでその意味でも楽しみです。セックスが撮れる監督ってやっぱ最高だよね~。『凶悪』のピエール瀧もすごくよかったんですが、今回の綾野剛くんを観たらまた違う良さがあって、撮れるセックスにバリエーションがあるのはとても素晴らしいことだな!と思いました。おっぱいもみもみ。

 

ちなみに、モデルになった道警の不祥事はこんな感じだそうです。そんなことまじでやったんかよほんとびっくりだよね。余談だが、私は本州以外に住んだことがないのだけれど、国境に面するというのはこういうことなのだなとしみじみ思いました。まったくはちゃめちゃだよ。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A8%B2%E8%91%89%E4%BA%8B%E4%BB%B6

近況と7月6日~7月15日までにみた3本(レジェンド 狂気の美学、ウォークラフト、クリーピー偽りの隣人)

前回の更新から2週間以上たってしまって、忙しかったのかというとそうでもなくそこそこのらくらしていて、映画を3本見たので短めの感想を書きます。the忘備録。

 

なぜ1本ずつ独立した記事を書かないかというと、1本はあんまり面白くなくて面白くない理由も面白くないから、1本はけして悪い映画ではないけど私には理解の及ばない映画だったから(そして少しうたた寝したから)、そして最後の1本はすごい衝撃を受けたんだけど映画偏差値高すぎて今の私ではちゃんとした感想がかけそうにないから、もうちょっと勉強したあとに改めて見て感想を書きたい映画だったからです。

そのほかに、なぜか嵐のTHE DIGITALIANのDVDをいまさら見て(2014のtopicsだけどはやりものについていけない質なのよ)衝撃を受けていたという事情もある。痺れるからジャニーズ的男子に興味なかった人(私のことです)も見たらいいと思うよ。これについては少し記事書こうかなと思ったけれども、なんかもうアイドル論は十分興味深いことを語ってる人がいるから割愛します。ちなみに嵐のアルバムは今のところLOVEが好きです。推しメンは大野くんと櫻井くんです。

ついでにこんなライトな感じでサッカーのこと(特に高円宮プレミアリーグイースト、特に特に市船観戦記)も書きたいんですけど、映像がないから見返すこともできないしすぐ忘れちゃうというのが育成年代サッカー観戦記の難しいところです。あんまり適当なこと書いても申し訳ないしな…ただ、7月末からインターハイを広島に見に行くので、せっかくだからその感想というか観戦記でもかけたらなあとうっすら思ってます。誰が読むんだろう。

 

というわけで以下、映画3本の軽い感想。

レジェンド 狂気の美学ブライアン・ヘルゲランド/イギリス/2015)

恵比寿ガーデンシネマにて鑑賞。公式はこちら。

www.legend-movie.net

私は見に行く映画を選ぶときには、まずは監督、そして題材、最後にロッテントマトを少しだけ参考にして、そのうえで好きな映画ブログさんをチラ見してから見る映画を決定しています。しかし、もちろん例外もあり、前評判の是非にかかわらず必ず見に行く映画もあります。それはマシュー・マコノヒートム・ハーディが出ている映画です(窪田正孝が出ている映画も全部見ようと心に決めていたんだけどさすがに心が折れた)。

というわけでトム・ハーディが主演なので見に行ったんだけど、この映画は…あまり面白くなかったですね。題材は実話ベースで60年代イングランドイーストエンド、マフィア、双子の兄弟、兄は優秀で美しく、弟は精神疾患もちの同性愛者、その間に兄の恋人、そして恋人視点の語りと、もうこれ面白くならないの難しくないかという単語がてんこ盛りなんですけど、この題材でよくこんなにぼやっとした映画にできたなという…(ごめんね。でもぼんやりしてたよ。)なんでダメになっちゃったんだろうと考えてたんですが、よくわかりませんでした。監督が映画撮るのあんまり得意じゃなかったのかなって思った。ひどい感想だな。絵にも色気がないし、物語も散漫で、クレイ兄弟の何をストーリーの真ん中に置きたいのかよくわからない映画だった。

しかしハーディはすごく良かったです。ハーディはいつも花丸満点だね~~(ハーディガチ恋勢)。双子が両方ハーディが演じてるんだけどノイズはまったくなかったです。双子だけどちゃんと別人でした。本当に上手だね~~~。あと、弟の恋人はタロン・エガートンくんじゃない、眉毛なし男子の方がかわいかったです。

しかし、とにかくハーディの鼻梁がとっても美しくて、私の心はまあまあ満足しました。1000円の日だったからね。

ウォークラフトダンカン・ジョーンズ/アメリカ/2016)

TOHOシネマズ新宿にて鑑賞。公式はこちら。

warcraft-movie.jp

これはまったく射程範囲外だったんですが、原作ゲームが大好きな友人に連れられて見に行きました。で、映画としては本当に全然悪くなかったというかむしろ脳筋ハイファンタジー映画としてはかなり良かったんじゃないかと思われたんですけど、いかんせん私に世界の基本知識がないものだから、美味しいところがわからなさ過ぎて困惑して途中で猛烈な眠気に襲われた映画でした。

友達が批評家の言葉を引用していてまさにそれ、っていう感じだったんですが「招待されてないパーティ」。それそれ。うまいこという。パーティ自体のクオリティは高くてすごく楽しめると思うよ。招待されてたら。

ダンカン・ジョーンズ監督は『月に囚われた男』をみていて、こちらもよくできたSF映画だと思うんですが、この監督のよいところは余計なことは説明しないところだと思います。『ウォー・クラフト』も本当に気持ちいいくらいに何の状況説明もなく淡々と目の前で起こることが進んでいって、着地点もなんの言い訳もなくその起こった事実の通りに着地して、映画としてなぜどういう意図をもってそこに着地したのだ…っていう解釈が入る余地もなしなんですが(でも映画を見ていればその場で起こったこととキャラクタ性からまあそう着地するよね…という納得はちゃんとできる)、それがすごく世界を広く見せるんだよな。『月に囚われた男』も基本的には余計なことは一切語らないことで世界を広く見せてる映画だと思います。何を語るかより、何を語らないかが大事で、それが映画をスマートに見せることもあるんだなとしみじみしました。

あと、魔法使いが魔法使うときに手に魔法陣が出るエフェクトがかっこいいです。わたしもやりたい。ファンの人が読んだら怒られそうな感想だな。小さいスクリーンだったけど、多分興行収入はそう悪くないんじゃないだろうか。ファンボーイたちで席はいっぱい埋まっていた。

 

クリーピー 偽りの隣人(黒沢清/日本/2016)

ユナイテッドシネマ豊洲にて鑑賞。公式はこちら。

creepy.asmik-ace.co.jp

一番感想を書くのに困っているのがこの映画でした。黒沢清監督はもちろん以前から存じ上げてて、マストで見なきゃいけないと思いつつ、あまりの映画偏差値の高そうさに腰が引けていままで見るのを避けていましたごめんなさい。あと怖い映画があんまり得意じゃないんですよね…でも感想とか評価みるだに黒沢さんの映画絶対めっちゃ怖いじゃん。腰が引けてましたが意を決して見に行きました。いったんですけど感想…感想が

めっちゃ映画撮るの上手だね。

という言葉以外出てこなかったです。なんかさ~~~上手すぎて私がここが上手ですっていうの馬鹿みたいだからなにも言えないんだよ~~。私は観客様なんだから何言ったっていいはずなのに。何かを言うことに引け目を感じるくらいめっちゃ映画撮るのうまいんだもん。

とにかく意図のないシーンが全然なくて、テーマがあって、それに対する脚本があって、絵コンテがあって、その絵を撮るための舞台(セット、ロケーション)があって、舞台上を動く役者がいて、その上にエンターテイメントとしての推進力が乗ってて、そうした映画の設計図がもうめちゃくちゃ最初からしっかりしてるんだろうなと想像するしかないです。だからテーマに対して、観客に対して、一つもなんとなくなシーンがないんだと思う。あまりによく出来すぎてることがノイズになってしまうくらい。序盤は構図と視線誘導の見事さに感心しすぎて話にうまく入っていけなかったです。本末転倒。

特に構図がすごいな~~~って本当に感嘆しちゃうんですけど、空間にレイヤーが何枚もあって、画面の奥に向かって仕切りがたくさん置かれてるのね。それで死角がすごく上手に作られていて、あとは風に揺れるカーテン。動いてるものと動かないものの配置もその動くスピードも完璧なの。特に寄ったカメラがスーと後ろにゆっくり引いていくカットがめちゃくちゃ怖い…。あと光と影のバランスも。西野家玄関右手のドアのないむき出しの入り口が凶悪すぎ。ちらっとしかフレームに入ってこないのが余計に怖いんだよ~。

そうした「死角」は視覚的な部分だけにあるわけではなく、人物造形にも「死角」がある。つまり、登場人物はちゃんとカメラ(観客の視点)との間にディスコミュニケーションがあって、みんな秘密を持ってるんですね。私たちは彼らの身体から表出された動きからしか彼らを知ることができない。どういう意図があってその動きをしているのか推察するしかない。その「死角」が不安と恐怖と違和感を煽るんだなあ。その点、野上(東出昌大)のキャラクタ造形が、東出くんの演技も含めて特に素晴らしかったように思います。結局!お前は!なんだったんだよ!!!

そして、もひとつ衝撃だったのが、大変アグレッシブな演出…。例えば、早紀(川口春奈)が高倉(西島秀俊)の研究室で過去の事件についてインタビューに応じるシーン。話し始めると照明がスッと落ちるんですよね。室内が暗くなって、明るいガラス窓の外と中では違う世界になったのだって表現だと思うんですが、そこまで映画を見ている私は映画の中の「リアル」は私がいま生きている「客観的な」現実に沿っていると思い込んでいたので、その演出に声が出るほどびっくりしました。つまり、私たちの「客観的な」現実の世界で話が始まったら照明が落ちるなんてことはありえないじゃないですか。でも「主観的な」現実世界(より概念的世界って感じ…伝わりますか……)ではあの感覚はありえるかもしれない。その「主観的な」現実に即した演出が「客観的な現実」より優先される演出にたまげたのでした。めちゃくちゃ大胆やんけ…

でもさ、よくよく考えてみると最初から変なんだよ。あんな明るい取調室とかさ、がばがばの警察署表現とかさ、靴箱みたいなとこに超軽率に入ってる拳銃とか、注射する薬なんなんだよとか、あとキャラクタたちの日常の動きや会話も。なんかコンテンポラリーダンスみたいですよね。私は当然自分が把握している「リアル」に沿ってると思い込んで映画を見ていたので、件の照明のシーンが来るまで気が付かなかったんだな。

映画のリアリズムについては監督がインタビューですごくかみ砕いて説明してくれているのでこちらをどうぞ。

realsound.jp

で、なぜそういう演出がされるのかってことなんですけど、つまりこの物語が「概念的な」世界について語る映画で、序盤で描かれる日常のリアルが作り物めいてるし偽物なんじゃないかって前提を布石として置いてるってことなのかな。 

多分…そう。たぶん。そういうことなんだと思うんですけど。偽物のリアルが剥がれ落ちることでようやく立ち上がる世界が黒沢監督の映画のテーマの真ん中であるのだろうと思うし、キャラクタ達は世界と世界の狭間で軋んで悲鳴を上げるのだろうし、立ち上がった世界はクリーピーでいうなら、高倉に康子(竹内結子)がわけわかんない怖いクッキー食べさせる恍惚なんだろうなと思います。

しかし、この解釈については、私が映画の文脈を十全に理解しているとは思えない(そ~いうふうに思わせるのが映画偏差値の高さなんだよぉ…)ので、私は黒沢清監督作をちゃんと全部見て、あとクリーピーをもう一度見て、文脈をしっかり把握する必要があると感じています。なのでこの感想は暫定的な結論とさせてください。誰に言い訳してるんだ。

この映画シネコンでも上映されてていわゆるエンタメ作でもあると思うんですが、普通の(普通ってなんだよ)映画を見慣れている人ほど面食らうし違和感を感じるだろうし、その違和感の意図を文脈とかメタファーとして汲み取れないと「ぼんやりしたチープなご都合主義映画」という評価に落ち着いちゃうんだろうなとも思いました。その壁って乗り越えられるのかな…つまり本物のままブレイクスルーできるのかって話ですけど…う~~ん。今後にますます期待したい。

 

役者の皆様方はみんな素晴らしかったんだけど、私が特に感心したのは東出くんの成長でした。得体のしれない奥行きがあって、作中ではもっとも気味の悪いクリーピーな存在だったように思う。秘密を抱えた彼が、空洞なのか詰まっているのか詰まっているなら何が詰まってるのか、ぞわぞわする存在でした。よく考えると『桐島部活やめるってよ』でもそうだったな…しかし『桐島』でみたときは、立ってるだけでもう圧倒的にすごいビューティフルピープルが出てきたぞっでも芝居はうまくねえな…って思ったんですが、しばらく見ないうちにずいぶんといい佇まいの俳優になっていた。

あと、藤野涼子ちゃんね!ソロモンの偽証で見た時にも仰天したんだけど、彼女は~~~このままいけば将来ものすごくなりそうだよな~~~~!!香川さんの芝居を受けるのは相当大変だったと思われるんですが、まあ吹き飛ばされつつも見事に食いしばって立ち上がることよ。美しいおでこと顰める眉。成長がすごく楽しみな女優さんです。

 

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結局すごく長くなってしまったな…クリーピーは記事分けてもよかった気がしましたがもう書いちゃったので仕方ないですね。黒沢清監督作品ちゃんとみようと思います。ダゲレオタイプの女もとても楽しみ。