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バードショット(ミカエル・レッド/フィリピン/2016) 亡霊が私を森へと呼んでいる

映画感想

TIFF20163本目。鳥映画タームに突入だ!ちゃんとみてなかったけどよくみたらフィリピン映画でした。ダイ・ビューティフルに続き連ちゃんフィリピンです。そしてワールドプレミアだった!なんとなく得した気持ち。

アジアの未来部門にエントリした作品で、監督作品が3作以内の新人監督が参加できる部門だそうです。ミカエル・レッド監督は2作目ということでしたが(1作目もTIFF出品で当時10代とのこと。今はいくつなんだろう?みた感じめちゃくちゃ若かった。プロデューサーの女性も若かった)、とてもそうとは思えないほど洗練された映画でした。

あらすじはこんな感じ。

2016.tiff-jp.net

オフィシャルトレーラーはこちら。

 

www.youtube.com

公式サイトのサムネを見た瞬間、女と猟銃ときたらクールに決まってるだろ観るしかないね!ということでチケットを取りました。

上映が始まった瞬間から最後まで、野外撮影による美しいフィリピンの自然と俳優たちの表情、美しい構図、美しい光と影のコントラスト、美しいくすんだ色調の連続で、ミカイル・レッド監督、相当ビジョンがはっきりしている人なんじゃないかと感じた次第。スタイリッシュで、無駄なシーンだなとか曖昧な画だなと思う瞬間がほぼなかったです。途中もろイングロリアス・バスターズな場面もあったりして(床下に隠れるやつ。あれってイングロリアス・バスターズ以前にも引用元あるのですか?無知。)フフって思ったんだけど、タランティーノこの映画好きそう。あと、私はドゥニ・ヴィルヌーヴの「ボーダーライン」なんかも思い出したりしてました。

あと音楽の使い方もすんばらしかったです。サスペンスに対して過不足なし!の音楽でした。スマート。

 

ストーリーに関しては、フィリピンで起きた実話をいくつか組み合わせて作られていて、並行して走る主人公のマヤと新人警官の2つの物語が重なり合う1点はあるものの、サスペンスとして観ると新人警官側のストーリーにはっきりとオチがつかない構成になっていて、一瞬物足りなく感じます。でも、シビアなフィリピンの現状を描いた作品でもあるとは思うけど、社会派映画というよりか、むしろもっと抽象化されたテーマをエンターテイメントとして昇華している映画なのかなと思いました。だから、警官側の事件としてのオチは本筋とは直接関係ないともいえるので省略されたのかもしれない。なにより、それを補って余りある画力だった。

なかでも素晴らしかったのは主人公のマヤのキャラクタ造形で、黒い長い髪をなびかせて赤いスカーフを巻き、猟銃を背負って黒い猟犬をつれている所在なさげな姿はほぼ完ぺき。ティーチインに主演女優のメアリー・ジョイ・アポストルもいらっしゃってて、これまで演技経験がないとおっしゃっていて驚いたけれども、彼女のアイコンとしての魅力が背骨となって映画をしっかりと支えていたように思う。ティーチインで機会があったのでマヤのキャラクタ造形について質問してみたところ、監督はマヤはまさに絶滅危惧種のフィリピン鷲のようなピュアネスの象徴である的なことをおっしゃっておりました(どうでもいいけど監督クールなイケメンで質問するのに無駄に緊張しました)

マヤと新人警官は、最初は同じような純粋さ潔白さを持っていて、それ故に森からやってくる死者の声に感応する力(神の声を聴く力なんですかね)を持っているんだけれども、社会や大人の軋轢から徐々にそのピュアネスを失わざるを得ない状況に追い込まれる。で、新人警官は途中でそれを手放してしまうんだけど、マヤは最後まで手放さない。

これはなかなか意外で、私は引き金を引くと思いましたよ。ダークヒーローとして社会から逸脱して戦うのかと思ったらそうはならない。彼女はフィリピン鷲のように保護区の森の中に分け入っていく。そして、彼女がピュアネスを手放さなかった結果、本当にそこで起こった真実を知る権利が与えられる(監督談)。タランティーノの映画だったらぜったいぶっ放してたよねあれ。

そのラストは意外でした。アイコンとして象徴的な姿をした猟銃を抱えた女性が、初潮を迎えて理不尽に猟犬を奪われ父親を奪われて、それでも最後に引き金を引かない決断をするっていうのはなんていうか、監督の作家性を感じた。引き金を引かないことが強さの象徴っていう。正直、意外性あった。ミカイル・レッド監督の今後にすごく期待したいです。次回作も観たい。ていうか1作目も観たい。あとマヤが出てくる映画で続編もう一本観たい。

とても美しい映画でした。フィリピン映画の未来は明るいね。

ダイ・ビューティフル(ジュン・ロブレス・レナ/フィリピン/2016) 美しく生き美しく死ぬ

映画感想

TIFF2016の2本目はコンペ部門。あらすじはこんな感じ。シエラネバダに続き葬式映画でしたね。

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161027EXシアター六本木にて鑑賞。

フィリピン映画!トランスジェンダーである主人公の女性の波乱万丈な生涯を葬式の日から振り返っていくハートフルストーリーというにふさわしい内容でした。もうテーマ聞いた時点で泣いちゃう映画なの間違いないよなと思って見に行って、案の定涙するという。

ストーリーテリング的な部分ではちょっと拙いところもあったかなという気がして、子どもを育てるくだりをもう少し生かせなかったのかなと思ったり、特に序盤、時系列が入り乱れる部分で今誰のどの話をしているのかと戸惑う部分があった。しばらく見ていればすぐわかるので問題があるというほどではないけど、もう少しスマートに導入できたような気はします。あと、葬式中毎日セレブの顔になるという設定も、彼女の美しさがなんなのかという話ともう少しうまく絡められなかったかなという気もした。

 

しかしそれより何より、主役のトリシャが本当に美しくてチャーミングでパワフルでね。悪い男に騙されたり、肉親から辛い言葉をかけられたり、彼が望む姿をするだけで指を刺されて笑われたり、喜怒哀楽のつまった人生を、強く美しくサバイブしていく姿にぐっとこない人がいようか。カラフルな画面も衣装もすごくかわいくて(おうちの柵の色かわいい過ぎない?)、フィリピンに行ってみたくなる映画だった。あと、ちょっとフェリーニの「カビリアの夜」を思い出しましたワン。とにかくチャーミングなんだよヒロインが。

ただ、私が涙してしまった要因は他にもある。トリシャはトランスジェンダーとしてミスコンに出まくって、男性である自分の身体を自分の愛すべき形に改造していく。神様からもらった身体をこんなにきれいにして返すんだから喜んで!と嘯く彼女は美しかったけれど、この映画はコメディでもあるんですよね。私はそのコメディ部分というか、男性が女性になっていく過程で笑いが起こる「滑稽さ」みたいなものをどう扱っていいものやら、観ながらちょっと悩んでしまった。

男性が女性になろうとしていくその過程で「滑稽さ」という要素は否定はできなくて、映画の中でもコメディとして、笑いをとる要素としてそれは描かれていて、実際に会場でも7変化するトリシャの死に化粧や仲間のトランスジェンダーたちのカラッとしたバカ騒ぎに笑いが起きたりしていた。

でも私は会場で笑いが起きるたびに、なんか釈然としなかったんですよね。だってなりたい自分になろうとしてるだけなのになんで笑われなきゃいかんのかみたいな気持ちが沸いてきて。もちろん作中に登場するトランスジェンダーたちはその滑稽さなんか織り込み済みで、軽やかにそれを笑いに変えていくんだけど、でもそれを観客である私が笑うのってなんか釈然としなかった。これを笑うのは、トリシャをもてあそんでレイプした男たちと根幹では同じことなんじゃないのか?と考えているうちに観ながら涙が出てきた(ちなみに私はセックスもジェンダーも女性で男性と結婚しています。こどもはいません)。すごく複雑な気持ちになりました。これは映画の話というより私のジェンダー観の話ですねすみません。

ティーチインがあったのでぜひこの映画のコメディ的要素についてどう考えているのか監督に聞いてみたかったけど、残念ながら時間切れでした。無念。

 

トリシャを演じたパオロ・バレステロスは実際は女性のパートナーとお子さんがいるとお話しされていましたが、見事に美しいトランスジェンダーを演じきっていた。上映後涙してらっしゃったけれど思わずもらいなきしてしまったよね。

シエラネバダ(クリスティ・プイユ/ルーマニア/2016) だって笑っちゃうんだもの

映画感想

始まりましたね第29回東京国際映画祭。開催前のチケット発売でのすったもんだもあり(そもそもスケジュール発表が興行開始1か月前、チケット発売2週間前というのも、めちゃくちゃじゃないかい?)なんだかテンションが下がっていたのですが、映画には罪がない。ということで4本のチケットを確保しました。ここであんまり文句を言ってもあれなのですけど、子どもの遊びじゃない国際映画祭なんだからちゃんとしようぜ。宣伝用の動画がダサい(映画祭なのに…)こともすげ~ひっかかってるよ。

 

気を取り直して記念すべきTIFF1本目はシエラネバダ

161027六本木EXシアターにて鑑賞。公式サイトと大まかなあらすじはこちら。

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率直に言って、めちゃくちゃ面白かった。カンヌ出品時もずいぶん評判が良かったので今回マストな1本と思っていたのですが、評判にたがわぬ面白さでした。10月30日にも上映があるので、慌てて感想を書きました。日本公開あるのかなあ怪しい気がするのでこの機会にぜひ。チケットいっぱいあるみたいだから観に行ってみてね。予定が合えば私はもう一度観たいと思ってます。

 

ルーマニア映画です。映画を見る前にルーマニア近現代史を知っているときっともっと理解が進むんでしょうが、もちろん私にそんな豊富な知識はありませんでした。でも、チャウシェスクが政治家の名前で、ルーマニアチャウシェスク政権下から民主化した旧共産圏の国ってことがわかっていれば物語の理解にさほど支障はないと思います。ユーゴ内戦後の東欧情勢と9.11周辺の話題もニュース程度に知っていたらきっと大丈夫なのかな。私もところどころ固有名詞がわからなくてうん?ってなるところあったけれども、テーマとしてはむしろうん?てなってもいいような作りなのかなと思います。言い訳か。

まず、最初のカットから路肩駐車で人が行きかうのもままならない路地、前に進むのも後ろに下がるのもままならないごちゃごちゃのどんづまりのなかを喧嘩しながら右往左往する家族の遠景長回しで、速攻苦手な人は振り落とされるだろうなというもったりとしたタイム感と重苦しさで映画が始まります。

でも、しばらく観ているとこのもったり感、劇的なことが何も起こらないままの右往左往が映画を通しての重要なリズムということがわかります。駐車だらけの狭い道は後半にも登場します。それと同じような役割を果たしているのが、葬式会場である、やたらと部屋数は多いのに廊下は人がすれ違うのも手狭なギュウギュウのアパートメントです。ほんと狭いし暗いし人はウロウロするし、もたもたしてるし、全体像は見えなくてせせこましいんだから。この舞台設定がすごくスマートに登場人物たちの状況を提示していて、手際の良さに唸る。1カット目で彼らが陥っている閉塞感とか生活にのしかかる重苦しさが言葉もなしにひしひしと伝わってくる。

で、やりたいことは神父を招いて葬式を済ませてご飯を食べるだけなのに、神父は遅刻するし、姪っ子はつぶれちゃったヤク中?の友達連れてくるし、元共産党員の叔母さん①と信心深い娘①は世代間の政治宗教主義主張の差で小競り合いするし、叔母さん②の旦那(不倫しまくってもめてる)は乗り込んでくるし、甥っ子はアメリカ政府の陰謀論に夢中だし、弟は軍人の立場から主人公の冷笑的なスタンスはどうなんだと釘さしてくるし、数学教師の兄弟(兄弟じゃないのか?ちょっと血縁関係がどうなってるのかわからなかった)は控えめで所在なさげで気を遣うし、スーツの寸法は間違ってるし、子どもは泣くし、嫁は買い物に行っちゃって帰ってこないし、おなかは減るし、ご飯は全然食べられないし…という話です。ほんとにそれ以上でもそれ以下でもない。かかえる問題は深刻で悲惨だけど何の劇的な演出もなく、コメディらしい演技というのもなく、淡々とうまくいかない家族たちの小競り合いが続きます。

この映画は間違いなく喜劇で何回か私も声をあげて爆笑してしまったんだけど、その笑いは滑稽と悲しみとどん詰まりの辛さと寂しさとどうしようもなく肩を寄せ合って許しあう人々の温度と、その全部がまじりあっていて、決して定型化された笑いではない。喜怒哀楽の感情の境界線は滲んでいて、まるで私が生きている生活でやってくるように怒りが沸いて、同時に哀しくなり、罵りあっているうちに思わず笑ってしまう、そういう笑いです。

たとえば家族にだけ、恋人とだけ、仲のいい友達といるときにだけ思わず起こってしまう笑いや怒りがあって、その笑いに含まれる喜びやおかしみや許し、怒りに含まれる甘えや衝動やままならなさ、断ち切れなさを、シエラネバダという作品は丁寧に描き出します。一切の手順を省略することなく、とにかく丁寧に、一つずつ一人ずつ感情の輪郭を描き出して、最後のシーンその手順が結実して生まれた家族たちのこらえきれない笑いは、複雑で、体温があり、手触りのある、人の生そのものだった。

最初に東欧情勢の背景を知っていれば、と書いたんですけど、多分この笑いは普遍的なもので、どこの国でもこういう感じってあるんだな、という気持ちがした。すごくいい映画でした。映画っていいものだなって思った。ラストシーンは本当に最高だったんだから。

わたしは主人公と軍人の弟と陰謀論に捉われた弟とのやりとりがすごくうまいなあと思った。俳優陣の演技も本当に素晴らしかったです。

 

怒り(李相日/日本/2016) ここちよい憤怒の手触り

映画感想

20161011 横浜ブルクにて鑑賞。

公式サイトはこちら

www.ikari-movie.com

今度こそ観てすぐに感想を書くと誓ったわけだったが…。李相日監督作品を観たことがなかったので、怒りを見た後に『悪人』を観ました。そのため感想が遅くなった(言い訳)。先に書くとあまり褒めていませんので、この映画最高だったと思った方は読まない方がいいかもしれない。

 

怒りは3つの物語が同時に進行して、そのひとつひとつが一つの事件とテーマで少しずつつながっている構造になっています。初見で、かなりアレハンドロ・イニャリトゥの『バベル』に既視感があった。すごく似てるよね。ただ映像の説得力としてもロドリゴ・プリエトと組んでた時のイニャリトゥと比べるとう~んという印象だった。優馬(妻夫木聡)パートのパーティとかさ、あんなのチエコがクラブに遊びに行った時の超すごいシーンを否が応にでも思い出してしまうではないか(あそこはプリエトじゃなくてイガラシさんなんだろうか。Babel - Chieko Nightclub Sceneで検索してみてね)。そりゃ比べちゃうと説得力ない。そしてプロットにもかなり致命的な欠陥があるように思います。

もう一つ、去年私の洋邦あわせてのベストだった橋口亮輔監督の『恋人たち』も似ている構造なんですよね。構造だけじゃなく、偏見と無理解の暴力に喘ぐ人々の物語という点では『恋人たち』はほぼテーマも同じなんじゃないかと思います。で、こっちと比べちゃうとまた脚本と演出の面でかなり物足りない。ちょっと意地悪な言い方だなと我ながら思うんですけど、ちょっと類似で上位互換できるものがたまたま身近にありすぎて、これはどうかしらんという感想にならざるをえなかった。

 

原作付きの作品なので、もしかしたら原作からあるプロットに問題があるのかもしれないと思い、『悪人』も観たんですけど、多分わたし李相日監督とあまり相性が良くない。(※追記:悪人も原作者一緒だからなんの論理の補強にもならなかったですね)

苦手だなと思う理由としてはいくつかあるんですが、端的にいうと、扱っているテーマに対してキャラクタと物語の練度が低すぎる気がして、それ故に浮ついているというか、苦悩の手乗り感というか、重心が高いなという後味の悪さが残っちゃうんですよね。それは悪人よりも怒りの方が顕著です。

その原因を具体的考えてみたんだけど、李相日監督作品に登場するキャラクタ造形は物語ありき、結論のためにあるような白々しさがある。感情をことさら説明するような台詞とか、視線、仕草、身体の動かし方の紋切り型な演出などがすごく気になる。

別にそういう演出方法ならそれでも全然いいんですけど、一方で、監督が撮りたいのは生きてる人間の手触り、生活感、人の取り繕っていないむき出しの感情なんだろうなあと思わせるところがある。で、多分結構役者にそういう演技をするように求めてるんだろうな。今回、綾野剛くんと妻夫木くんが同棲生活したってコメントもみましたが。

でも役者たちの生々しさ、劇画のゆらぎみたいな演技に対して、紋切り型の脚本と演出がすごくギャップがあって、それが映画にちぐはぐな印象をもたせているように思う。ただ、これはそういうのが好きと言われたらそうですかというしかないです。私にはレギュレーションの不一致と感じられるけど、好きな人にとってはそうではないかもしれない。以前感想に書いた『君の名は。』の人物と背景の話と同じ話になります。

あと単純に思わせぶりな役者の顔面のアップとかがあまり好きではないです。

 

怒りの話に戻ります。で、一番この映画で問題なのはプロットの欠陥で、物語の進行上3つの話を貫いている事件をめぐる『怒り』というキーワードが、テーマ的に3つの話を貫いている『人がいつまでも確かな信頼を築くことができずに失敗を繰り返し、理不尽な偏見・軋轢・無理解の小さな暴力が巡り巡って弱いものを殺す』という概念と全然上手に結びついていないという点です。もしかしたら原作からある欠点かもしれないので、そうだったらすみません(原作未読)。これは結構致命的で、森山未來の演技は良いと思うんですけど、ちょっと田中信吾(森山未來)のキャラクタ設定は雑が過ぎたんじゃないかと思うし、あのキャラクタの描写では、彼の持っていた「怒り」が、社会が形成される限りどうしようもできない小さな悪意の蓄積の雪崩によって爆発したという風には到底思えなかった。人が人を信じるには弱すぎるという話と、人が普遍的に善も悪も持ち合わせていて、偶然みたいな風向きでどちらの目が出るかわからないという話と、『弱いものが夕暮れ、さらに弱いものをたたく』という話と、個人では抗いがたい社会的な差別構造への反発から生まれる怒りって話がごちゃごちゃになっていてすごくわかりにくい。3つの物語を貫く「怒り」のスタンスが丁寧に描写されないままなので、結局ほかの2本の物語とまとめきれずに「誰に何が起こったんだっけ?そしてこの3つ今おんなじ話してる??」というとっちらかりのすっきりしなさが残ったのでした。もちろんわかりやすければいいわけじゃないけれど、複雑であることと混乱していることは別だと思います。

 

そして、私が最も納得いかなかったのは、沖縄問題とレイプ事件というかなりデリケートかつ深刻な「怒り」を取り上げておきながら、地域も歴史も社会も生活も考慮しないままに、「信じてたのにひどい奴だった」みたいな個人の突発的な怒りに物語の結論が収束され、あまつさえ被害者本人は途中でドロップアウトして、結末を女優の思わせぶりな横顔と海への叫びに託すというお茶の濁し方で締めたぶん投げぶりには、正直少々腹が立った。それ、そういう締め方するなら舞台が沖縄である必然性あった??東京で日本人にレイプされたって一緒じゃないか??あれじゃ物語の深刻さを味付けするために沖縄問題取り上げたと言われても仕方がないっすよ。そしてそのぶん投げが足を引っ張って、他の2本のストーリーの深刻さもなんだかふわふわと軽率に見えてしまったのだった。一番よかったのは謙さんの物語だったかな…。

 

あんまりよくない感想について長く書くのも心が重いもので…この辺にしておきます。役者陣の演技はどのパートも素晴らしかったように思う。宮崎あおいの泣き声と高畑充希の穏やかなとまどいと諦観が鮮やかに残った。

 

ヒメアノ~ル(吉田恵輔/日本/2016) 終わりは突然に、だけどゆっくりやってくる

映画感想

20161002 早稲田松竹にて鑑賞。

公式サイトはこちら

www.himeanole-movie.com

2本立ての2本目です。ディストラクション・ベイビーズを主な目的として見に行ったんですが、率直に申し上げてヒメアノールの方が面白かった…。嬉しい驚き。監督・脚本の吉田恵輔監督は過去撮ってる作品を観た感じ、いわゆる商業監督さんなのかと思っていたんですが、塚本組の照明さんでいらっしゃったのですね。そして森田剛くんは映画初主演なのかな。誠にもったいない話だよ。とてもよかったです。しかしこの内容でよくレイティングをR15+に収めたし、よく事務所もOK出したよね。製作に入ってたけど…本当にキワキワのラインを狙っていて、商業映画の興行として素直にイイネ!と思った。

 

まず、絶対に書かなくてはならんのはタイトルコールのすばらしさです。今年観たすべて映画の中で一番かっこよくて最高なアーバンタイトルだったしタイトルコールでした。音楽と一緒にタイトルが出てきたとき、あまりのかっこよさに思わず映画館で声をあげてしまったし、笑顔が止まらなかった。ぜひ、見た人にもあの感覚を味わってほしいので詳しくはかかないんだけど、本当によかった。最高。近年ではガーディアンズオブギャラクシーに匹敵するタイトルコールのかっこよさだった。

古谷実の原作は未読なんですが、ヒミズシガテラ、わにとかげきすあたりは読んでいます。好きです。で、映画化に際してすごく上手に古谷実漫画のテンションを映像にしていてすごく感心してしまった。日常/非日常、生(性)/死、平穏/不穏の裏表が笑いとシニカルと暴力と諦観で描かれていくっていうのが古谷作品の基本的なスタイルだと思うんだけど、それを演技と演出でうまく表現している。岡田(濱田岳)の日常が非常に漫画的な演出で描かれてるのに対し、森田くん(森田剛)の日常は等身大で実寸大で劇画なんですよね。デフォルメされていなくて輪郭がぶれている。森田の初登場時、カフェで項垂れてタバコを吸っている彼が、お~岡田く~んと発声した瞬間に、違和感の隙間から不穏が流れ出す。その後のベンチで喫煙を認めないシーンも、撮り方によっては笑えるはずなんだよね。でも演出と演技が劇画だからその不条理と滑稽さが怖い。その点において森田くんの演技も出色だったと思います。

もう一つ素晴らしかったのはゴア表現で、「死んでいる」じゃなくて「死んでいく」が見えるのがとてもよかった。生が徐々に失われる過程とセックスが重なって、それが森田の自慰行為に結実するんですけど、まあ見事だなと思った。特に素晴らしいなと思ったのは、森田が久美子を撲殺しているシーン(あれをお尻側からあの距離で撮るのすげえ)に岡田とユカ(佐津川愛美)のセックス(後背位です。だよね。)が差し込まれるシーンと、警官の胸に包丁(万能包丁イェ―。)をゆっくり差し込むシーン、あとこれは過程というわけじゃないけど、過去、草むらでいじめっこを殺したあとに森田が自慰するシーンでした。森田くんの自慰シーンは全体的によかったよね。教室での理不尽な世界への諦観と平熱の視線もすごくよかった。

で、他にも滑稽と残酷の絶妙なバランスとかいいところたくさんあったんですが、最後に結末について。

理不尽に倫理を剥奪されて世界の外側に弾き飛ばされてしまった森田が、それならそれで仕方ないから俺は俺のルールで生きるそうして奪ったのはお前たちだと言わんばかりに繰り返す虐殺がどこに行きつくのかについて、彼を名前のない怪物として開放する(あらすじ見た感じ、原作はこっちの解釈なのかな)のではなく名前のある(失った)人間として帰結させたわけなんだけど、それについて岡田がした所業を森田が忘れているとか、なんでユカを狙ったのか全然描かれないとか、犬をよけようとしたところだとか、そんなあたりで森田くんを、私たちが安心するための装置の中に閉じ込めてしまわないようぎりぎり踏ん張ったのかなと思っています。最大限の譲歩だし、そのおかげで森田くんの最後の欠損がより活きたし、なにより森田くんの最後の演技も活きたと思います。

とにかくいろんな面でバランスの良い映画だったし、この俳優を使ってこの原作でこの題材を撮るっていう条件を最大限に活かした商業映画でもあったなと思った。

まだわからないけど、多分私の今年の10本に入ると思う。

ディストラクション・ベイビーズ(真利子哲也/日本/2016) ノイズがおれをかきたてる

映画感想

20161002 早稲田松竹にて二本立てで鑑賞。

公式サイトはこちら 

distraction-babies.com

 

今年は意外なくらい邦画を見ています。豊作なのかな?例年がわからないから比較できないですが、見に行きたいと思う映画が多いのは良いことです。ちげえねえ。

ヒメアノ~ルとの二本立てで、こちらを先に観ました。前情報なしだったんですが、冒頭のノイズを聴いた瞬間になるほど向井秀徳、そして菅田将暉が登場したあたりまでを見て、なるほどザ・ワールド・イズ・マインとなりました。

 

泰良(柳楽優弥)の暴力は、なんの前提も言い訳も理由もなく、ただ砂を指でこすり合わせたときのジャリジャリという音と感触のようにノイズとしてくすぶり続けて、衝動は衝動でそれ以上でもそれ以下でもなく、ただ純粋で自由で透明な暴力でありつづける。

裕也(菅田将暉)の暴力が女性や老人に向けられるその卑小さは、泰良の暴力の透明さ・純粋さをより際立たせる。だけど、同時に裕也がもつ自己顕示欲や浅はかさや衝動も多分ノイズには違いないんだよね。その意味では裕也のノイズと泰良のノイズが一時的に共鳴する物語といえる(多分、だから泰良は裕也を殴らない)。

泰良の弟、将太(村上虹郎)も対照的に描かれる一人で、彼もまた泰良とノイズを共鳴させてるんだけど、彼のノイズは世間一般(育ての親や警察、友人、テレビに映る人々)の無神経な侮蔑、偏見、無理解との軋轢のために生まれるノイズです。上記の二人とはまた違う。

最後に、ともに逃避行をつづける那奈(小松奈菜)のノイズがある。ただ、彼女の扱いはちょっと難しかったなと感じました。泰良が彼女にむける「どやった?」は、彼女の生存本能とか、むき出しに触れてしまったものへの興味ってことだと思うんだけど、ちょっと女性性というものに頼りすぎではないかいと思ったし、女性性という根拠に頼るなら性描写はもう少し頑張って欲しかった。結果的に、彼女のノイズの描写の粗さが泰良の興味を少し軽率に見せてしまっているようにみえた。ワールド・イズ・マインもマリアはちょっと微妙だもんね。女のノイズを描くのは男性にとって難しいんだろうか。どうなんだろうか、私は女だからよくわかりません。

で、この手の物語は終わらせるのがすごく難しい題材で、じゃあ泰良の純粋な衝動はどこへ向かうのか。私は寄る辺なく放浪し続けるしかないと思うのだけれど、彼は故郷へ帰るんだよね。それは彼の衝動は社会の外側にある異常行動のように見えながら実際は内包されているものだって結論だと思う。

ただ、その結論ならその結論でいいんですが、単純に映画のストーリーとしてみると、戻ってくるならなんで出てったんやという疑問がひっかかちゃってですね。かなり表層的な部分で恐縮なのだが、物語としての合理性に欠けているなと感じた瞬間に我に返ってしまって、泰良の衝動の美しさにいまいち没入しきれなかったのでした。

あらゆる意味で若い映画だなと思った。真利子監督の今後が楽しみです。

 

俳優たちは軒並みすばらしくて甲乙つけがたいんですが、特に私は村上虹郎くんの美しさに目を見張りました。彼は兄を追いつつ軋轢の中でもがきながら段々自分の中のノイズを自覚していくんだけど、時々の眼差しや声の瑞々しさが素晴らしくて、特に後半、映画の重心はむしろ彼のノイズが軸足となっていく。それは演出上の意図したところなのか、結果的にそうなっちゃったのかわからないんだけど、泰良を食ってしまった印象を受けたのは事実です。ラストで泰良に神通力を感じないのも、そのせいもあるかもしれないな。どうかな…そう考えると、柳楽くんはちょっと割を食ってしまったかなと思います。でも柳楽くんもよかったんだよ。松山の繁華街をあてどなく独りでうろつくとき、雨ざらしになったブロック塀や錆びた鉄門みたいな色してるんだよ。すごく綺麗だった。

菅田くんも素敵にみみっちくって切実だったんだけれど、菅田くんが着ると何日も洗ってない工員の臭い作業着もしゃれたジャケットに見えちゃうんだなと思いました。

君の名は。(新海誠/日本/2016) 僕たちは忘れ続ける

映画感想

20161005 TOHOシネマズ小田原にて鑑賞。

公式サイトはこちら

www.kiminona.com

 

久しぶりにアニメ映画を見ました。新海誠監督作は秒速5センチメートルをみています。背景がきれいだよね(定番の感想)。背景は絵画的なのに人物は小説みたいだなっていう印象を持っていました。ちょっとちぐはぐな感じ。それがいいのかな。

今作もそのへんの居心地の悪さというか、ちぐはぐな印象はぬぐえなかったです。背景や空や人物の所作は滑らかな肌触りなんだけど、人物の表情や台詞、感情表現だけが浮いているというか、デフォルメされて角ばっているというか、滑らかさがない。デフォルメされている分見やすくはなっているんだろうけど、私には表現のダブルスタンダードのように思えてしまって、最初から最後までお尻のすわりが悪かったです。あとOPでの、大仰に手を伸ばしたりというアニメ的表現になんか耐えられなかったんだよね(だって実際にそんなことなかなかしないじゃんという気持ち)。それは私がアニメ的表現の文脈に慣れてないからかもしれないですし、新海監督は違和感を感じさせるためにわざとそうしているのかもしれないです。

で、男の子と女の子が引き継がれて紡がれてきた糸の結び目になるという物語についてですが、実はあんまり感情移入も集中もできなかった。というか、多分この映画の本当の旨みは結び目にはなくて、多分「忘却」にある。「忘れないこと」ではなくて「忘れてしまうこと」にある。

どれだけ強い結び目であれと思っても、過去はすべて記憶のなかで変質し、失われ、それに抗うために人は何か(紐とか、文字とか、儀式とか)を依代にしようとするんだけど、それに頼ってすらも忘却の力に抗うことは難しい。その消失にこそセンチメンタルの結晶があって、瞬間、その結晶はこの映画の信じられないほど美しい星空のように輝く。なので、本来この映画は雪の日の東京の歩道橋ですれ違う二人のシーンで終わってよかったし、そこから後ろは大衆に向けたサービスというか、蛇足かなと思いました。ちょっとだらしないよね、あのラストシーンは。

でもこれくらいの方がお客さんは入るんだろうと思います。実際、私が見た回は平日の昼でしたが、老若男女問わず結構なお客さんが入っていました。私も母と一緒にみました。

しかしながら、母の開口一番の感想は、「なんか難しかったね…」でした。あんなにわざとらしく性をデフォルメしてがに股と内股にしても駄目なわけよ。多分、アニメ文脈をそもそも理解してないと???ってなる部分があるんだろうと思う。わたしが感じている違和感もそれなのかな。背景がきれいなアニメ、とは思えない。背景と人物のレギュレーションが一致していないアニメ、という感じがする。とにかく、大衆に受け入れられるって難しいものだなと思いました。本当に。

あと民俗学者が政治家になるって設定は違和感ありすぎた。民族学者ならともかく民俗学者だよね?お父さんはもうちょっとなんとかならなかっただろうか。

 

ここからは多分映画の本筋からは離れる…のかな離れないのかな。ある程度意図されているとは思うけど、メインストーリーであるボーイミーツガールとは違う話です。

実は、町を救うために学校放送で避難を呼びかけるあたりから、東日本大震災当時のことを思い出して涙が止まらなくなり、その先の話があまり頭に入ってきませんでした。災害描写は明らかに震災を意識していると思うので、そこまで的外れな感慨ではないと思います。

断わっておくと、私は当時東京で暮らしていたので、まったく被災はしていません。私が思い出していた震災は報道の中で流れる遠くの現実で、震災そのものではないです。ただ、私がそのときそれを報道で見ていたという体験が私の震災体験で、東京に住む瀧(神木隆之介)の立場とすごく重なって、なんかつらくなっちゃったんですよね。

東北で震災があったあの日、私は会社で仕事をしてました。これといった実害はなかったのですが、電話も通じず、テレビもなく、電車も止まっているので自宅に帰れず、同僚と歩いていける距離にある中華料理屋で時間をつぶしていました。その中華料理屋のテレビに映る映像で、初めてどこで何が起こったのか、そのごく一部を知ったのでした。

その映像は一面に広がる田んぼのなかに津波が押し寄せてきて、逃げて走る軽トラックがのみこまれる映像でした。そのトラックに乗っていた人の生死はわかりません。でもそのトラックを飲み込んだ波はそのまま住宅地にぶつかって進んでいきました。その映像が流れたとき、普段だったら会話が飛び交ってにぎやかな中華料理屋は、ほぼ満席だったのに静まり返っていました。

震災の当日やその後、何をしたのか、どうやって生活していたか、何を考えていたのか、今の私はほとんど覚えてないのですが、その映像を見たときのことだけは強く覚えています。

映画の中で、瀧は3年前のその時につながって、その悲劇に介入することができます。でも震災を経験したとき、私は起こってしまったそのことに何も介入することができず、もう起こってしまった人々の死を、テレビの向こうから眺めていることしかできなかった。

彗星が落ちたあの町にいた人たちは、実際には死んでいたはずで、それに何の介入もできない無力さを思って、なんだかその当時を思い出して辛くなったのでした。これは私の震災についての体験の話であって、もっとつらい人がいたとか、できることをやればいいとか、そういう話じゃないです。テレビの向こうから流れてくる、もう起こってしまって巻き戻しができない人の死をみるという体験についての話です。

 

楽しい記憶や日々の記憶はどんどん零れ落ちて忘れてしまうのに、つらい記憶はずっと長持ちする。それは、人がそれを紡いで伝えて、いつかくる危機を避けるためのリスク管理の装置なんだろうか。君の名は。という映画もその紡がれた糸の内の1本ということかもしれないです。