8月納涼歌舞伎「野田版 桜の森の満開の下」その3/ずっと前から独りきり、桜の森で待っていた

おはようございます。

私のブログにしては異常に閲覧数上がってて急に不安になったので、続きを書く前に前書きさせてください(インターネッツが自分の庭じゃないと気付いた)。

  1. 最初にも書きましたが、私はドが付く歌舞伎の素人なので(初回に観た時、エナコ役の中村芝のぶさんをガチで女性だと思っていた)そのあたりの知識は皆無です。なので、オヤと思うことがあったらご教授いただけると非常にうれしいです。特に不安なのが人名役名よ…間違っていたら教えて…
  2. これも書いたのですが、野田さんの作品を観るのも初めて、ていうか観劇もほぼしたことないミリしら野郎でその辺の知識が皆無なので、オヤと思うことがあったら(以下略)
  3. しょせん学生の修論レベルですから坂口安吾についての知識もたかが知れています。貼ってあるリンクは、私が言ってることがここに書いてあるぜ!というよりは、これを私はこう解釈してるけど君はどう?という意味なので、オヤと(以下略)

学生時代、考察を書くときには「~と思う」・「個人的に」などの言葉は冗長だから使わないでね個人的な意見てことはみんな知ってるからね、と指導され、確かにごもっともだなと思ってそれを守ってるんですが、使わないともの知ってる風な文章になるんですねこれが(応仁の乱壬申の乱間違えてたくせに…)。

この前書きがもう冗長だね。言い訳やめやめ!感想の続きを書きます。私はこう思ったからみんながどう思ったかはみんなが書いてくれ!よろしくお願いします。

 

その1とその2はそれなりに真面目に書いたつもりだったのですが、その3は「野田版桜の森の満開の下」と私、みたいな話であり、その1・その2よりまたさらにフワっとした話をします。軽めのテンションで体験談として書きますので、ひとりの女がひとつの舞台に出遭ったんだな~と思ってどうぞご笑覧ください。

前書き書いてて思ったけど、腰の重いわたしが幾多のハードル超えてこの舞台みるまでに至ったのはけっこう奇跡的な気がします。ハードルて大したことないやんと言われるかと思いますが、「15000円て1部だけの値段なんだァ…」(そりゃそうだろ)てとこからスタートしてる人間からすると、右も左もわからぬままに目の肥えた(であろう)人々に混じってぼっちで幕見席に並ぶまでに至るのは結構な行動力が必要でした。並んでる間、注意を説明してくれる歌舞伎座の係員さんの話をめちゃくちゃ真剣に聞いてて、我ながら笑いました。一般の劇も見ない人からしたら、やっぱり歌舞伎は敷居が高いのよ。

まあでも、これも縁ってやつですね。桜の森の満開の下で呼ばれてたんだね。


「野田版 桜の森の満開の下」を観ようと決意し、なんか恐かったので友人を誘い(なんか恐いというこの気持ちわかってほしい)、なんとか2人分チケットをとって8月19日に二階のど真ん中3列目くらいで初回鑑賞しました。観に行く前は実はちょっと懐疑的で、たぶん原作好きな人が実写版見るときに不安になるのと同じ気持ちだったと思います。しかし、幕が開いてあの大きな満開の桜の仕掛けが見えた瞬間に、アッこれは全然大丈夫だと直感的に思い、そして歌舞伎ってチケット代高えな…と思っていた自分の心を恥じました。私もシャガールの絵より値札の0を数えてしまう俗物なのだ…。

1回目を観て、とても面白かったと思いました。15000円でめちゃおつりがくるし、こんなに心づくしで丁寧に作られたものをみてしまった喜びで、友達と興奮しながら安酒を飲みに行きました(そういう気分になる話なんだ。安吾は財布に優しい)。口に入れてすぐおいしいって思えるくらいにエンタメなのに、同時に抜け目なく安吾の作品からの引用が配置されていてその魂の芯を明確に捉えていて、野田秀樹ってすごく頭いいし持ってる引き出しの数が全然違うんだな…(小並感)と感嘆しきりでした。あとで検索して「桜の森の満開の下」初演が野田さん33歳の時と知って仰天した。今の私と同い年かよ(2回目)。

野田さんが数ある作品の中から安吾を選んで敬意と愛情をもってリメイクしたんだなということも感じました(④の話です)。野田さんの舞台も歌舞伎のこともこの舞台でしか知らない私がいうのはおこがましいんですが、リベラルなのに古典を重んじる野田さんの作風は、もし安吾が生きていたら気が合って飲み友になれたんじゃないかしらんと妄想してニヤニヤしたりしました。こういうことでニヤニヤしているときは酒がうまい。

戦後まもなくの時期に安吾が書いた作品群のことを思い返すと、よくも当時あんなこと書けたものだよと改めて感心します。心が強いし身体も強いね。そういう安吾の姿勢に対する愛情と敬意を舞台から感じました。うすぼんやりした平和のなかにある今の時代だって、安吾が書いてたこと今の世に出したらめっちゃんこ叩かれて大炎上だよ。私は偉大な破壊を愛していたとか、いくら真意に言葉を尽くしたところでツイッタ~で140字に切り取られてボーボーですよ。この不謹慎野郎!発表当時のことはよく知らんが安吾も石投げられたりしたのだろうかな。そのあたりのことが、バケモノやら仏像やらつくって社会からつまはじきにされる描写に現れてるのかな、と思いました。野田さんもそういう目にあったことあるのかね~どうなのかな。

夜長姫と耳男は、そういう創作にとりつかれた鬼子たちへのエールでもあります。この脚本が何回も再演されて若い世代の人が演じていくことは、過去の鬼たちからのお前も頑張れよエールでもあるんだな~いい話だな~お酒がうまいな~。


特に私のお気に入りのキャラクタは夜長姫と耳男の二人。はもちろん、面白かっこいいマナコとピエロちゃんみたいなハンニャです。出てくるキャラクタがみんなとても愛らしくて、残酷で恐ろしい話なのに思わずウフフと笑ってしまう。全体的なムードがシリアスでないところもとても安吾らしくて気に入りました。お気に入りのシーンは青空の下で屋根に上る二人のシーンと最後の夜長姫が消えてしまうシーンです。本当に桜の中で消えてしまう場面を肉体をもった人間が表現できるんだね。アッと思わず声をあげそうになりました。七之助くんの演技も当然初めてみたんですが、とても魅力のある人だなと痺れました。彼も今の私とほぼ同い年なんですね~ガハハ(恥じ入る)。

終演して幕が閉じたその瞬間に「もう一回みてえな…」とつぶやくくらいには気に入っていたんだけど、チケットは完売しているみたいだし無理だね!残念だね!とがぶがぶ酒を飲み、その日は気分よく帰りました。

しかし、家に帰って布団の中に入ってさあ寝ようと思って目を閉じると、突然今日見た舞台がフラッシュバックして涙が出てくる。夜長姫が桜の森の満開の下で消えてしまう場面です。別に気分は悲しいわけでもないし、ショックでもないし、なんなんだこれはと思うと涙は引っ込むんだけど、閉じるとまた涙が出てくる。その一晩ぐっすり寝て(寝不足とかにはならない)朝起きて、夜が終わってしまったと思ったときに、もう一回なんとかして満開の桜の下が観たいという気持ちが固まっていました。

 

検索して幕見席なら並べば観られると知り、8月25日に右往左往しながら行列に並んで幕見席でもう一度鑑賞しました。それが19日にみたものよりずっとずっと素晴らしかった。席は当然よくないからあの美しい桜の木はちっとも見えないし、セリフもよく聞き取れない部分はあったし、マナコが大仏の首落とす一連とかまるまる見えなくて脳内補完したけれど、やっぱり19日に観たものより25日に観たもののほうがずっとよかったです。

私の理解が深まったのもあるかもしれないが、特に夜長姫演じる七之助くんの演技は(役のとおり)鬼気迫るものがあった。とても遠くから見ていても表情が見えるような、耳元で囁かれてるような感覚で、オペラグラス装着してヘッドホンしてるみたいな視聴感覚。
私はひとりで泣きました。終わった後も思い出しては断続的に涙が出てくるので、歌舞伎座から有楽町までだらだら汗を流しながらだばだば泣いている不審な女がそこにいました。

 

最後の場面、人々がキリキリ舞いで死に絶えたあと夜長姫が振り返って客席をにらみつけるあの瞬間、わたしは言葉を失ってしまう。こんなに語るべきことがたくさんある劇なのに、夜長姫のあの姿をみると何をいってもそうじゃない、というような気持になる。哀しくもない、苦しくもない、正しくもない、間違ってもいない、怖くもない、嬉しくもない、好きでもない、嫌いでもない。これまで持っていた言葉に上手くあてはめられなくてなんだか涙が出る。そうすると、舞台の上で耳男が、まるでいま、わたしのように、言葉を失っている。

その瞬間、この物語は私の物語である!と強く感じたのでした。そして、私の物語でもあり、安吾の物語でもあり、野田さんの物語でもあり、おそらくは勘九郎くんの物語であり、七之助くんの物語でもある。厳密にいうとわたしは創作者でもなんでもないから別に呪うことも殺すことも争うこともしてないんだけど、桜の森の満開の下に惹かれてしまうような人間はみんな耳男なのだ。あなたも私もみんな耳男。鬼子なんだろう。鬼子はそのようにして、好きなものは呪うか殺すか争うかして、仕事をするしかないのだ。

感想その1その2で私が安吾の言葉を借りまくってつらつらと余分に語ったような「ふるさと」が、安吾が創作者として生きて死ぬまで抱え続けた「ふるさと」が、あの桜の森の満開の下で二人の役者のその肉体に全部内包されていたのでした。

それは何だろうね。
切ない。切ないも違うんだな。言葉がない。
とにかくずっと観ていたい。観ていると涙が出てしまう。


……ブログ書きながらまた泣いとるでい。日常生活に支障が出ますで。
感想を書こうとして言葉がないとはまったく怠惰なことですし、こんなブログを読んで皆さんは知らんがなと思うでしょうが(私もそう思う)、言いたいことは「野田版 桜の森の満開の下」は素晴らしかったということなので、そう感じた人は私もそう感じたなあと感じてください。

何かの物語を自分の物語だ!と没入させられる人はそうたくさんはいないと思います。相性もあるし。でも25日の勘九郎くんの耳男にはその力があった。演技をしているというノイズが消えて、本当の人間がそこにいてそう感じているのだという瞬間があった。それは七之助くんの演技も同じです。ていうか、先に仕掛けたのは七之助くんかな、と思う。客席を振り返った瞬間から桜のなかで消えてしまう瞬間まで忘我の凄味があった(語彙がないねん)。役者二人の呼応が夜長姫と耳男の呼応とぴったり重なった空間だった。

そして、これから先、あの美しい役者たちはあのようにして何もかもをささげて生きて死ぬしかないのか、と強く感じました。それでまた涙が出てきてしまうんだな。たぶん役者としてはまだ若いお二人が夜長姫と耳男を演じたのは良いことだったのだと思います。桜の森の満開の下は「ふるさと」を知る話だから、それは大人の仕事じゃないと安吾も言っています(そもそも安吾が大人の仕事をできたのかといわれると疑問はある。どうなんでしょうね)。

これから「ふるさと」からどこへでも旅立って、でもいつでも心は桜の森の満開の下にあって、耳男が夜長姫を殺したように立派な仕事をするのでしょう。お二人とも。
そのように生きて死ぬのをみつめていることは、とても残酷なようにも思えるけれど、とても静かで優しい気持ちでもあるのだ。


そう願います。そう呪おうじゃないか。

そうして二人がやってのけた立派な仕事を観たら、わたしはまいった~。まいったなあ。というだろうと思います。
後も先もなく、あるがままの透明な気持ちで。
その時がくるのがとっても楽しみだね。

 

本当は、人はそういうことが大好きなのよ。

 

8月納涼歌舞伎「野田版 桜の森の満開の下」その2/ずっと前から独りきり、桜の森で待っていた

 

さて、前半の続きです。ちゃんと感想書けるのかな…不安。

歌舞伎「野田版 桜の森の満開の下」は物語が多層構造になっていて、レイヤーは(私が観ていて気付いた範囲で)こんな感じと書きました。これらを秩序/混沌の軸が貫いています。
①耳男と夜長姫をめぐる創作の源について
壬申の乱をめぐる国のかたちの成立
③日本神話における国造り(たぶん)
④創作者として生きた安吾の鬼子ぶり(たぶん)

②のレイヤーは比較的わかりやすい(イヤホンガイドでも話の筋として紹介してくれていました)ので先に②から話します。

第一幕、ヒダの匠の弟子・耳男(うっかり桜の森で師匠を殺した)と盗賊のマナコ(しっかり桜の森で匠を追いはぎした)とオオアマ(イケメン)はヒダの王家に集められて、ヒダのお姫様の夜長姫と早寝姫のために菩薩像を彫るよう命じられます。でなんやかや像を彫り始めるんだけど、実はオオアマは匠でもなんでもなくて国家の転覆を狙っている大海人皇子でした。オオアマは都の方角から鬼門にあたるヒダの国で鬼門を封じているヒダの王を懐柔し早寝姫(昼間に起きてる姫様だから太陽の象徴ね)を殺して鬼門を開き、鬼たちを連れて戦争を起こして自分が帝になります。缶蹴り(鬼門を封じてる缶があるんや)で缶をひっくり返すことに成功してこのたくらみは成就します。
この時点で秩序(国家・天智天皇)に対してオオアマは混沌(抵抗勢力・鬼たち)にいる。ガイドでも解説されてましたが鬼たちは地方豪族の象徴ではないかとのことです。舞台上で鬼たちは存在しているが人の目には映らない黒衣(黒い網のアレを付けている)の存在になっています。
第二幕、鬼たちは鬼門をくぐったことで実態をもつ存在になっている。国家が転覆したのでオオアマや鬼たちは秩序の側、「人間」にまわったわけです。そして彼らは、争いに負けてしまった旧権力の人々を「内外」ではなく「上下」に位置づけることで秩序の安定を図ります。混沌側の存在(旧体制の権力者、戦争に負けた人たち)は国の外側の存在ではなく国内の下層の存在になってしまったんだね。
混沌は秩序の中に「下層」という名前で取り込まれてしまうが、そのことにより缶蹴りみたいなナンセンスな遊びでひっくり返るように不安定で曖昧だった秩序/混沌の世界バランスは、より秩序の側で固定されることになる。混沌側の人々は追われて殺されることで国の東西南北の境を定義して、耳男は鬼として逃げ続ける役割を与えられます。それが秩序の安定のために必要だから。

ここまで書くとだいたい「野田版 桜の森の満開の下」の②のレイヤーでどんなことが描かれているのか見えてくると思います。人間社会が形成されるにあたり、かつては表裏一体で曖昧で不安定だった秩序/混沌の世界は、社会の安定の名のもとに秩序が定義することで混沌の居場所はなくなっていきました。ルール、法律、常識の定義、階級ができ、それらのルールからからはみ出すもの、死、忌避すべきもの、鬼子、貧困者は下層のものとして整理整頓されて秩序の一部になったわけです。

大事なことは、混沌を混沌と定義したのはあくまで秩序の側にいた権力者であるということです。いま私たちが確かなものだと信じている善悪や常識の概念は当然普遍的な、人間ならだれでも持っているあたりまえのものと人は信じているけれど、あくまでオオアマのようないけすかね~人間(イケメン。染五郎さん演じるオオアマはいけすかね~のに愛らしいという絶妙のバランスでしたよ。別にオオアマは悪い奴ではないんだよね。いけすかね~だけで。)が作り出した定義にすぎないということです。これは昔の話じゃないですよね。いまもそうです。それが悪いことではないんだよ。約束がないと人は困ってしまうから。まあでも、その約束は誰かの都合で作られたものです。

③のレイヤーは物語の中で具体的に固有名詞を挙げて描かれてるわけではないんですけど、秩序/混沌の軸で社会の成立を描くなら演出のイメージが③のようになるのはある程度必然だろうと思います。鬼門を開く儀式でカニが円を描くのは天沼矛のことを思い出したし、ヒダの王たちは古き神々を思わせる。夜長姫に対して早寝姫という太陽の象徴を置くのもアマテラスかて思いますし、自転車で下っていくのは黄泉平坂かなと思いました。


ここからが本題の本題です。①の話。
こうして、秩序/混沌のバランスが変化していく時代の中で、耳男は夜長姫と出遭って創作者として目覚め、凋落し、再び目覚めます。
第一幕。夜長姫ったら耳男の異形の耳を指して笑い、しかもさして意味もなくその耳を両方ともちょん切り、人の死や残酷なものを眺めてはウフフと笑ってる(カワイイ)恐ろしい女なんですが、そんなめっちゃひどいことをしてくる相手に対して耳男は憎しみ恐れると同時に強く魅了されてしまう。夜長姫をあっと言わすために蛇を何百匹も殺して生き血をすすり菩薩なんて彫らずに一心不乱にバケモノの像を彫る。そのバケモノの像をみて、夜長姫はもう大変に喜んで(とてもカワイイ)素晴らしさを称えます。
一方で、第2幕。耳男が名声を得るためにオオアマの依頼で彫った、夜長姫の笑顔を模した菩薩は大変な凡作であるといわれてしまう。夜長姫は桜の森の満開の下で耳男に自身の鬼の角で胸を刺され、消え行く間際に耳男に言います。
「好きなものは、呪うか殺すか争うかしなければならない」

いい言葉やね~~~~(小並感)!
で、耳男が魅入られる夜長姫はなんなんだですが、まさに創作者にとっての「文学のふるさと」であるということです。夜長姫はにわかあめが降ってきて右往左往する人をじっとみつめているのが好き、といいます。にわかあめは戦争のようなもの、ともいいます。
突然の予想もしない出来事、それまでの自分が穏やかに過ごしていた日常がさっと色を変えた時、秩序が突然に崩れて混沌が顔を出す、その境に人々が直面した時の「まいったなあ」と語り合うその声は、誰かから与えられた意味もなく、自分が信じ込んでいた常識からも突き放され、ただただ透明な約束(モラル)のなさがある。そういうものを夜長姫は観察し愛している人なんだね。まあ、にわかあめならまだいいですけど、耳男の耳を切り落としたのも(カワイイ)、天井からつるされた蛇をみて大喜びなのも(とってもカワイイ)戦争で死んでいくキリキリ舞いの人を指さすのも(めちゃめちゃ愛らしい)ぜんぶ夜長姫にとっては同じことなのです。
耳男はもともと混沌をのぞき込む資質をもっていて(でっかい異形の耳は秩序の外側にある鬼子の象徴かな)混沌と秩序の境目に立つ夜長姫に美しさを見出すんだけど、同時にとても怖ろしい。そりゃそうだ。下り坂でブレーキを一切使わずにどこまでも堕ちていける夜長姫はある意味では人間を超克していて、人間は弱いので、堕ちきることなんてできないのだ。

このあたりは堕落論を読むとわかりよいと思います(ありがとう青空文庫……)。
http://www.aozora.gr.jp/cards/001095/files/42620_21407.html

しかし、夜長姫は言います。「好きなものは、呪うか殺すか争うかしなければならない」。
秩序の裏側には常に混沌がある。願いはあるいは呪いであり、菩薩はあるいはバケモノであり、夜長姫はあるいは鬼である。そのことを知らないで、本物の何かを作ることはできない。今信じている秩序を疑い、混沌を覗かなくってはいけないんだね。それはとっても恐ろしいことです。秩序の中からはつまはじきにされるから周りからは狂人だの鬼だのと蔑まれるし、不道徳だなんて怒られるかもしれないし、奥さんや旦那さんや子どもに縁を切られるかもしれないし、法律に裁かれるかもしれない。
しかし、「このふるさとの意識・自覚のないところに文学があろうとは思われない。文学のモラルも、その社会性も、このふるさとの上に生育したものでなければ、私は決して信用しない。」んだな。

ラストにおいて、秩序の世界から鬼として追われ続けることになった耳男は、桜の満開の下で花びらの間に消えてしまった夜長姫の衣を抱いて言います。ずっとここにいる。でもここからどこにでも行けると。
夜長姫もそうだったんだね多分。ずっと前から独りきり、桜の森の満開の下で、きみのことをずっと待っていたんだな耳男。


う~ん。よかったな。よかった。私は最後のシーン、桜の森に二人がたどり着いたあたりからずっと泣いていて、正直今これを書いても泣いている。その涙がなんなのかを言葉にするのはとても難しくて、そこにあるすべてが美しくて、静かで、透明で、切ないような何とも言えない気持ちです。それは私が安吾を読んで愛していた、その気持ちそのものだったんだよね。たぶんそれは確かに「ふるさと」だったんだと思う。そういう「本当のもの」が、何十年も経ってから、本人以外の多くの人間の手を介して、肉体を伴ったものとして現実に現れたことにただただ涙してしまったのでした。

あの~まだ続くんかよって話ですが、その3に続きます。次で最後です多分。④の話と、勘九郎くんと七之助くんの演技について。

8月納涼歌舞伎「野田版 桜の森の満開の下」その1/ずっと前から独りきり、桜の森で待っていた

8月納涼歌舞伎で「野田版桜の森の満開の下」を観てきました。

歌舞伎は過去に一度友人のつてで連れて行っていただいたことがあります。その時も美しいものだなと感心したものの演目はなんだったかしらね…松たか子のお兄さんが出ていてすごくかっこよかった(小並感)というレベルの歌舞伎ド素人の私がなぜ「野田版桜の森の満開の下」を見に行ったかというと、大学の卒論・修論坂口安吾で書いていたからです(衝撃的なことに卒論は何書いたか全く覚えてないんだけど、修論は吹雪物語考で書いた。web検索でpdf出てくる)。
学生だった当時も「野田版 桜の森の満開の下」の存在は安吾の奥さんが見に行った話などを文庫のあとがきかなにかで読んで知っていて、是非見てみたかったけど、三重の片田舎にいる学生にはどう考えてもハードルが高かった。
いまや東京にすんでお金はないが時間はある大人になったので、せっかくだから見に行ってみようと思ったわけです。

右も左もよくわからぬまま8月19日に一等席(二階ではあるがど真ん中3列目くらい。素人がんばったやないか)で鑑賞して、どうもすごくよかったような気持ちがした。それで8月25日に右往左往しながら行列に並んで幕見席でもう一度鑑賞して、それが19日にみたものよりずっとずっと素晴らしかったので、ちゃんと感想を書こうと思います。
ほぼ口語に近い「野田版桜の森の満開の下」ですが、歌舞伎慣れしてないもんで何をいっているのか聞き取れない部分は当然あり、2回観ただけでは物語の読み込みが甘い部分があるとは思いますが、幕間で聞いたイヤホンガイドのコメンタリさんが観て全部わかんなくてもいい、っていう野田さんの言葉を紹介してくれてたので(優しい)、お言葉に甘えて現時点の私なりの感想を記しておきます。


「野田版桜の森の満開の下」はタイトルは桜の森の満開の下になっているものの、実際のストーリーのベースになっているのはほぼ夜長姫と耳男です。なので、桜の森の満開の下と夜長姫と耳男を読んでいるとすごくわかりがいいです。たぶん。
原著はこちら(青空文庫
桜の森の満開の下
http://www.aozora.gr.jp/cards/001095/files/42618_21410.html
夜長姫と耳男
http://www.aozora.gr.jp/cards/001095/files/42614_21838.html

劇のあらすじは過去に野田さんの劇団で上演した筋とほぼ同じですたぶん。こちらの方が簡単に紹介してくださっている。
http://www.ne.jp/asahi/loveangel/volcano/SakuranoMori.htm
単行本でも出ているんだね。5000円たたたたっけえ!!って思ったらkindleだと324円です。最高。買いました。今中身見たけど脚本形式だった。
https://www.amazon.co.jp/dp/product/4103405082/ref=as_li_tf_tl?camp=247&creative=1211&creativeASIN=4103405082&ie=UTF8&linkCode=as2&tag=bookmeter_book_image_image_pc_logoff-22

 

 

というわけで本題。


坂口安吾が執筆した「文学のふるさと」というエッセイがあります。
http://www.aozora.gr.jp/cards/001095/files/44919_23669.html

イヤホンガイドでも紹介されていて、とても親切だなと思いました。安吾の物語、ないし野田版桜の森の満開の下を理解するにあたって、「人間のふるさと」は「アモラル」「いきなりそこで突き放されて、何か約束が違ったような感じで戸惑いしながら、然、思わず目を打たれて、プツンとちょん切られた空しい余白に、非常に静かな、しかも透明な、ひとつの切ない」「生存それ自体が孕はらんでいる絶対の孤独」であり、「このふるさとの意識・自覚のないところに文学があろうとは思われない。文学のモラルも、その社会性も、このふるさとの上に生育したものでなければ、私は決して信用しない。」と安吾が考えていたことを念頭に置く必要があります。
ふるさとが実際のところ何なのかについては話し始めると10万字だから坂口安吾を読んでください。アモラルはインモラルとは違うよってとこだけ勘違いしないようご注意ください。そこ大事だで。


「野田版 桜の森の満開の下」では安吾作品の最重要概念のひとつである「ふるさと」を軸にして、物語のなかにいくつかのレイヤーを敷いてすべてうまいこと串刺しにしています。

歌舞伎「野田版 桜の森の満開の下」のレイヤーは私が観ていて気付いた範囲ではこんな感じ
①耳男と夜長姫をめぐる創作の源について
応仁の乱※1をめぐる国のかたちの成立について
③日本神話における国造り(たぶん)
④創作者として生きた安吾の鬼子ぶり(たぶん)

※1:応仁の乱じゃなくて壬申の乱だよ!ばか!素で間違えていました。恥ずかしいので見せしめに脚注の刑にしておきます。

この4つのほかにも、言葉遊びとか歌舞伎の劇構造のレイヤーなどが乗ってるんだけど、それは私の知識がないのでよくわかりません(怠惰)。まあでも物語の根幹は間違いなく①にあるので、それにほかの3つが集約されていく形になっています。②は物語で起こる事象、③は①と秩序/混沌の概念を結ぶイメージ、④は野田さんが安吾の話をもとに桜の森の満開の下を描いた時点で必然的にそうなるであろう安吾への共振みたいなもんだと思います。

 

正直、この多層構造のおかげで安吾の描いた原作より肉体があっていいねと思う部分もある。一番うまいなあと感心したのは、この「ふるさと」を人間/鬼、もっというなら秩序/混沌という概念の軸にスライドさせて、どのレイヤーにも矛盾なく軸が刺さるようにしているところです。「ふるさと的でないもの/ふるさと的なもの」の概念を「(既存の)モラル/アモラル」と理解して、それを「秩序/混沌」と解釈したんだと思うけど、まあまあすごいよね。野田さんはこの脚本を33歳のときに初演しています(いまのわたしと同い年…)。

またこれが、歌舞伎になったときにうまくアレンジされていて、歌舞伎の登場人物たちは七・五調でしゃべる(秩序)んだけど、黒子の網(なんていうんすかあれ。舞台上にいるのにいないことになる人…)※2被ってる鬼たちは口語(混沌)なんだよね。そんで、俺たちも七・五調でしゃべりて~なんていうわけだ。

※2 黒子ではなく歌舞伎では黒衣っていうと教えていただきました。 くろごって読むんだって。

おおまか概念を整理すると、こんな感じなのかなと思います。

混沌:鬼、桜の森の満開の下、青空、外側、盗人たち、神代(古き治世者)、死者、戦争、にわかあめ
秩序:人、都、内側、政府、人代(新しき治世者)、生者

こうやって振り分けるときに夜長姫を混沌そのものにいれるのかは迷うところなんですが、夜長姫は「ただじっと見ている人」なので、秩序の側にいたまま混沌を見つめる人、なのかな。耳男は夜長姫と一緒に混沌と秩序の間をいったりきたりします。最終的にはずっと混沌にいるけれど、どこへでも行ける人になる。
この振り分けはおおまかなので、盗賊たちなどの人間を混沌側に振るのは便宜的です。②のレイヤーにおいて盗賊たちはあきらかに混沌側なんですけど、①のレイヤーにおいて混沌側にはいない(ていうか登場しない)。①のレイヤーにおける混沌と②のレイヤーにおける混沌はイメージはダブってはいるけど厳密にいうと同じ概念とは言えないです。このあたりは野田さんに聞かないとよくわからんな(思考放棄)。わからん。あくまで「的なもの」ととらえて先に進みます。

大まかな物語の構造は、「秩序」の裏側にある「混沌」のなかで、耳男が「生存それ自体が孕はらんでいる絶対の孤独」(それはずっと最初からそこにあるのに、普段は目に見えないもの)を知って、それは創造者にとっては「ふるさと」であるというお話だと思います。

 

あともう1点、しっかり押さえてあるなあと思ったのは、「野田版 桜の森の満開の下」の全体的なテイストは滑稽というところです。もしかすると野田さんの作品全体に通底する雰囲気なのかもしれないですが、ほかの野田さんの作品を見たことがないのでわからない。

桜の森の満開の下および夜長姫と耳男の原典は基本的にシリアスなムードの物語ですけど「野田版 桜の森の満開の下」は耳男の性格もずいぶん明るくて、鬼たちや盗賊たちの軽妙なやりとりも(坂東巳之助くんのハンニャがとくにかわいい。贔屓。)テンポよく、劇にするにあたって滑稽をベースにしているのはさすが野田さんやな~と思いました。

安吾は「FARCEに就て」というエッセイで芸術の最高形式はファルスである、と書いています。

http://www.aozora.gr.jp/cards/001095/files/45801_38837.html

多分、安吾にとってのファルスは「文学のふるさと」と根っこがつながっている。「存在として孕んでゐる、凡そ所有ゆるどうにもならない矛盾の全て」は「生存それ自体が孕はらんでいる絶対の孤独」と近いものだろうと思います。同じものなのかな。

普段の野田さんの作風を存じ上げないんだけど、安吾の作品を野田さんが選んでいたのは自身との共振があったからなんだろな~などと思いました。

 

前半はここまでにして、後半で各レイヤーがどんな話なのかってことと、ふるさと的なものがなんなのかもうちょっと、そして「ふるさと」に立っていた勘九郎くんと七之助くんの素晴らしかった演技の話をします。
ぜんぜん本題にたどり着いとらんがな。

バードショット(ミカエル・レッド/フィリピン/2016) 亡霊が私を森へと呼んでいる

TIFF20163本目。鳥映画タームに突入だ!ちゃんとみてなかったけどよくみたらフィリピン映画でした。ダイ・ビューティフルに続き連ちゃんフィリピンです。そしてワールドプレミアだった!なんとなく得した気持ち。

アジアの未来部門にエントリした作品で、監督作品が3作以内の新人監督が参加できる部門だそうです。ミカエル・レッド監督は2作目ということでしたが(1作目もTIFF出品で当時10代とのこと。今はいくつなんだろう?みた感じめちゃくちゃ若かった。プロデューサーの女性も若かった)、とてもそうとは思えないほど洗練された映画でした。

あらすじはこんな感じ。

2016.tiff-jp.net

オフィシャルトレーラーはこちら。

 

www.youtube.com

公式サイトのサムネを見た瞬間、女と猟銃ときたらクールに決まってるだろ観るしかないね!ということでチケットを取りました。

上映が始まった瞬間から最後まで、野外撮影による美しいフィリピンの自然と俳優たちの表情、美しい構図、美しい光と影のコントラスト、美しいくすんだ色調の連続で、ミカイル・レッド監督、相当ビジョンがはっきりしている人なんじゃないかと感じた次第。スタイリッシュで、無駄なシーンだなとか曖昧な画だなと思う瞬間がほぼなかったです。途中もろイングロリアス・バスターズな場面もあったりして(床下に隠れるやつ。あれってイングロリアス・バスターズ以前にも引用元あるのですか?無知。)フフって思ったんだけど、タランティーノこの映画好きそう。あと、私はドゥニ・ヴィルヌーヴの「ボーダーライン」なんかも思い出したりしてました。

あと音楽の使い方もすんばらしかったです。サスペンスに対して過不足なし!の音楽でした。スマート。

 

ストーリーに関しては、フィリピンで起きた実話をいくつか組み合わせて作られていて、並行して走る主人公のマヤと新人警官の2つの物語が重なり合う1点はあるものの、サスペンスとして観ると新人警官側のストーリーにはっきりとオチがつかない構成になっていて、一瞬物足りなく感じます。でも、シビアなフィリピンの現状を描いた作品でもあるとは思うけど、社会派映画というよりか、むしろもっと抽象化されたテーマをエンターテイメントとして昇華している映画なのかなと思いました。だから、警官側の事件としてのオチは本筋とは直接関係ないともいえるので省略されたのかもしれない。なにより、それを補って余りある画力だった。

なかでも素晴らしかったのは主人公のマヤのキャラクタ造形で、黒い長い髪をなびかせて赤いスカーフを巻き、猟銃を背負って黒い猟犬をつれている所在なさげな姿はほぼ完ぺき。ティーチインに主演女優のメアリー・ジョイ・アポストルもいらっしゃってて、これまで演技経験がないとおっしゃっていて驚いたけれども、彼女のアイコンとしての魅力が背骨となって映画をしっかりと支えていたように思う。ティーチインで機会があったのでマヤのキャラクタ造形について質問してみたところ、監督はマヤはまさに絶滅危惧種のフィリピン鷲のようなピュアネスの象徴である的なことをおっしゃっておりました(どうでもいいけど監督クールなイケメンで質問するのに無駄に緊張しました)

マヤと新人警官は、最初は同じような純粋さ潔白さを持っていて、それ故に森からやってくる死者の声に感応する力(神の声を聴く力なんですかね)を持っているんだけれども、社会や大人の軋轢から徐々にそのピュアネスを失わざるを得ない状況に追い込まれる。で、新人警官は途中でそれを手放してしまうんだけど、マヤは最後まで手放さない。

これはなかなか意外で、私は引き金を引くと思いましたよ。ダークヒーローとして社会から逸脱して戦うのかと思ったらそうはならない。彼女はフィリピン鷲のように保護区の森の中に分け入っていく。そして、彼女がピュアネスを手放さなかった結果、本当にそこで起こった真実を知る権利が与えられる(監督談)。タランティーノの映画だったらぜったいぶっ放してたよねあれ。

そのラストは意外でした。アイコンとして象徴的な姿をした猟銃を抱えた女性が、初潮を迎えて理不尽に猟犬を奪われ父親を奪われて、それでも最後に引き金を引かない決断をするっていうのはなんていうか、監督の作家性を感じた。引き金を引かないことが強さの象徴っていう。正直、意外性あった。ミカイル・レッド監督の今後にすごく期待したいです。次回作も観たい。ていうか1作目も観たい。あとマヤが出てくる映画で続編もう一本観たい。

とても美しい映画でした。フィリピン映画の未来は明るいね。

ダイ・ビューティフル(ジュン・ロブレス・レナ/フィリピン/2016) 美しく生き美しく死ぬ

TIFF2016の2本目はコンペ部門。あらすじはこんな感じ。シエラネバダに続き葬式映画でしたね。

2016.tiff-jp.net

161027EXシアター六本木にて鑑賞。

フィリピン映画!トランスジェンダーである主人公の女性の波乱万丈な生涯を葬式の日から振り返っていくハートフルストーリーというにふさわしい内容でした。もうテーマ聞いた時点で泣いちゃう映画なの間違いないよなと思って見に行って、案の定涙するという。

ストーリーテリング的な部分ではちょっと拙いところもあったかなという気がして、子どもを育てるくだりをもう少し生かせなかったのかなと思ったり、特に序盤、時系列が入り乱れる部分で今誰のどの話をしているのかと戸惑う部分があった。しばらく見ていればすぐわかるので問題があるというほどではないけど、もう少しスマートに導入できたような気はします。あと、葬式中毎日セレブの顔になるという設定も、彼女の美しさがなんなのかという話ともう少しうまく絡められなかったかなという気もした。

 

しかしそれより何より、主役のトリシャが本当に美しくてチャーミングでパワフルでね。悪い男に騙されたり、肉親から辛い言葉をかけられたり、彼が望む姿をするだけで指を刺されて笑われたり、喜怒哀楽のつまった人生を、強く美しくサバイブしていく姿にぐっとこない人がいようか。カラフルな画面も衣装もすごくかわいくて(おうちの柵の色かわいい過ぎない?)、フィリピンに行ってみたくなる映画だった。あと、ちょっとフェリーニの「カビリアの夜」を思い出しましたワン。とにかくチャーミングなんだよヒロインが。

ただ、私が涙してしまった要因は他にもある。トリシャはトランスジェンダーとしてミスコンに出まくって、男性である自分の身体を自分の愛すべき形に改造していく。神様からもらった身体をこんなにきれいにして返すんだから喜んで!と嘯く彼女は美しかったけれど、この映画はコメディでもあるんですよね。私はそのコメディ部分というか、男性が女性になっていく過程で笑いが起こる「滑稽さ」みたいなものをどう扱っていいものやら、観ながらちょっと悩んでしまった。

男性が女性になろうとしていくその過程で「滑稽さ」という要素は否定はできなくて、映画の中でもコメディとして、笑いをとる要素としてそれは描かれていて、実際に会場でも7変化するトリシャの死に化粧や仲間のトランスジェンダーたちのカラッとしたバカ騒ぎに笑いが起きたりしていた。

でも私は会場で笑いが起きるたびに、なんか釈然としなかったんですよね。だってなりたい自分になろうとしてるだけなのになんで笑われなきゃいかんのかみたいな気持ちが沸いてきて。もちろん作中に登場するトランスジェンダーたちはその滑稽さなんか織り込み済みで、軽やかにそれを笑いに変えていくんだけど、でもそれを観客である私が笑うのってなんか釈然としなかった。これを笑うのは、トリシャをもてあそんでレイプした男たちと根幹では同じことなんじゃないのか?と考えているうちに観ながら涙が出てきた(ちなみに私はセックスもジェンダーも女性で男性と結婚しています。こどもはいません)。すごく複雑な気持ちになりました。これは映画の話というより私のジェンダー観の話ですねすみません。

ティーチインがあったのでぜひこの映画のコメディ的要素についてどう考えているのか監督に聞いてみたかったけど、残念ながら時間切れでした。無念。

 

トリシャを演じたパオロ・バレステロスは実際は女性のパートナーとお子さんがいるとお話しされていましたが、見事に美しいトランスジェンダーを演じきっていた。上映後涙してらっしゃったけれど思わずもらいなきしてしまったよね。

シエラネバダ(クリスティ・プイユ/ルーマニア/2016) だって笑っちゃうんだもの

始まりましたね第29回東京国際映画祭。開催前のチケット発売でのすったもんだもあり(そもそもスケジュール発表が興行開始1か月前、チケット発売2週間前というのも、めちゃくちゃじゃないかい?)なんだかテンションが下がっていたのですが、映画には罪がない。ということで4本のチケットを確保しました。ここであんまり文句を言ってもあれなのですけど、子どもの遊びじゃない国際映画祭なんだからちゃんとしようぜ。宣伝用の動画がダサい(映画祭なのに…)こともすげ~ひっかかってるよ。

 

気を取り直して記念すべきTIFF1本目はシエラネバダ

161027六本木EXシアターにて鑑賞。公式サイトと大まかなあらすじはこちら。

2016.tiff-jp.net

率直に言って、めちゃくちゃ面白かった。カンヌ出品時もずいぶん評判が良かったので今回マストな1本と思っていたのですが、評判にたがわぬ面白さでした。10月30日にも上映があるので、慌てて感想を書きました。日本公開あるのかなあ怪しい気がするのでこの機会にぜひ。チケットいっぱいあるみたいだから観に行ってみてね。予定が合えば私はもう一度観たいと思ってます。

 

ルーマニア映画です。映画を見る前にルーマニア近現代史を知っているときっともっと理解が進むんでしょうが、もちろん私にそんな豊富な知識はありませんでした。でも、チャウシェスクが政治家の名前で、ルーマニアチャウシェスク政権下から民主化した旧共産圏の国ってことがわかっていれば物語の理解にさほど支障はないと思います。ユーゴ内戦後の東欧情勢と9.11周辺の話題もニュース程度に知っていたらきっと大丈夫なのかな。私もところどころ固有名詞がわからなくてうん?ってなるところあったけれども、テーマとしてはむしろうん?てなってもいいような作りなのかなと思います。言い訳か。

まず、最初のカットから路肩駐車で人が行きかうのもままならない路地、前に進むのも後ろに下がるのもままならないごちゃごちゃのどんづまりのなかを喧嘩しながら右往左往する家族の遠景長回しで、速攻苦手な人は振り落とされるだろうなというもったりとしたタイム感と重苦しさで映画が始まります。

でも、しばらく観ているとこのもったり感、劇的なことが何も起こらないままの右往左往が映画を通しての重要なリズムということがわかります。駐車だらけの狭い道は後半にも登場します。それと同じような役割を果たしているのが、葬式会場である、やたらと部屋数は多いのに廊下は人がすれ違うのも手狭なギュウギュウのアパートメントです。ほんと狭いし暗いし人はウロウロするし、もたもたしてるし、全体像は見えなくてせせこましいんだから。この舞台設定がすごくスマートに登場人物たちの状況を提示していて、手際の良さに唸る。1カット目で彼らが陥っている閉塞感とか生活にのしかかる重苦しさが言葉もなしにひしひしと伝わってくる。

で、やりたいことは神父を招いて葬式を済ませてご飯を食べるだけなのに、神父は遅刻するし、姪っ子はつぶれちゃったヤク中?の友達連れてくるし、元共産党員の叔母さん①と信心深い娘①は世代間の政治宗教主義主張の差で小競り合いするし、叔母さん②の旦那(不倫しまくってもめてる)は乗り込んでくるし、甥っ子はアメリカ政府の陰謀論に夢中だし、弟は軍人の立場から主人公の冷笑的なスタンスはどうなんだと釘さしてくるし、数学教師の兄弟(兄弟じゃないのか?ちょっと血縁関係がどうなってるのかわからなかった)は控えめで所在なさげで気を遣うし、スーツの寸法は間違ってるし、子どもは泣くし、嫁は買い物に行っちゃって帰ってこないし、おなかは減るし、ご飯は全然食べられないし…という話です。ほんとにそれ以上でもそれ以下でもない。かかえる問題は深刻で悲惨だけど何の劇的な演出もなく、コメディらしい演技というのもなく、淡々とうまくいかない家族たちの小競り合いが続きます。

この映画は間違いなく喜劇で何回か私も声をあげて爆笑してしまったんだけど、その笑いは滑稽と悲しみとどん詰まりの辛さと寂しさとどうしようもなく肩を寄せ合って許しあう人々の温度と、その全部がまじりあっていて、決して定型化された笑いではない。喜怒哀楽の感情の境界線は滲んでいて、まるで私が生きている生活でやってくるように怒りが沸いて、同時に哀しくなり、罵りあっているうちに思わず笑ってしまう、そういう笑いです。

たとえば家族にだけ、恋人とだけ、仲のいい友達といるときにだけ思わず起こってしまう笑いや怒りがあって、その笑いに含まれる喜びやおかしみや許し、怒りに含まれる甘えや衝動やままならなさ、断ち切れなさを、シエラネバダという作品は丁寧に描き出します。一切の手順を省略することなく、とにかく丁寧に、一つずつ一人ずつ感情の輪郭を描き出して、最後のシーンその手順が結実して生まれた家族たちのこらえきれない笑いは、複雑で、体温があり、手触りのある、人の生そのものだった。

最初に東欧情勢の背景を知っていれば、と書いたんですけど、多分この笑いは普遍的なもので、どこの国でもこういう感じってあるんだな、という気持ちがした。すごくいい映画でした。映画っていいものだなって思った。ラストシーンは本当に最高だったんだから。

わたしは主人公と軍人の弟と陰謀論に捉われた弟とのやりとりがすごくうまいなあと思った。俳優陣の演技も本当に素晴らしかったです。

 

怒り(李相日/日本/2016) ここちよい憤怒の手触り

20161011 横浜ブルクにて鑑賞。

公式サイトはこちら

www.ikari-movie.com

今度こそ観てすぐに感想を書くと誓ったわけだったが…。李相日監督作品を観たことがなかったので、怒りを見た後に『悪人』を観ました。そのため感想が遅くなった(言い訳)。先に書くとあまり褒めていませんので、この映画最高だったと思った方は読まない方がいいかもしれない。

 

怒りは3つの物語が同時に進行して、そのひとつひとつが一つの事件とテーマで少しずつつながっている構造になっています。初見で、かなりアレハンドロ・イニャリトゥの『バベル』に既視感があった。すごく似てるよね。ただ映像の説得力としてもロドリゴ・プリエトと組んでた時のイニャリトゥと比べるとう~んという印象だった。優馬(妻夫木聡)パートのパーティとかさ、あんなのチエコがクラブに遊びに行った時の超すごいシーンを否が応にでも思い出してしまうではないか(あそこはプリエトじゃなくてイガラシさんなんだろうか。Babel - Chieko Nightclub Sceneで検索してみてね)。そりゃ比べちゃうと説得力ない。そしてプロットにもかなり致命的な欠陥があるように思います。

もう一つ、去年私の洋邦あわせてのベストだった橋口亮輔監督の『恋人たち』も似ている構造なんですよね。構造だけじゃなく、偏見と無理解の暴力に喘ぐ人々の物語という点では『恋人たち』はほぼテーマも同じなんじゃないかと思います。で、こっちと比べちゃうとまた脚本と演出の面でかなり物足りない。ちょっと意地悪な言い方だなと我ながら思うんですけど、ちょっと類似で上位互換できるものがたまたま身近にありすぎて、これはどうかしらんという感想にならざるをえなかった。

 

原作付きの作品なので、もしかしたら原作からあるプロットに問題があるのかもしれないと思い、『悪人』も観たんですけど、多分わたし李相日監督とあまり相性が良くない。(※追記:悪人も原作者一緒だからなんの論理の補強にもならなかったですね)

苦手だなと思う理由としてはいくつかあるんですが、端的にいうと、扱っているテーマに対してキャラクタと物語の練度が低すぎる気がして、それ故に浮ついているというか、苦悩の手乗り感というか、重心が高いなという後味の悪さが残っちゃうんですよね。それは悪人よりも怒りの方が顕著です。

その原因を具体的考えてみたんだけど、李相日監督作品に登場するキャラクタ造形は物語ありき、結論のためにあるような白々しさがある。感情をことさら説明するような台詞とか、視線、仕草、身体の動かし方の紋切り型な演出などがすごく気になる。

別にそういう演出方法ならそれでも全然いいんですけど、一方で、監督が撮りたいのは生きてる人間の手触り、生活感、人の取り繕っていないむき出しの感情なんだろうなあと思わせるところがある。で、多分結構役者にそういう演技をするように求めてるんだろうな。今回、綾野剛くんと妻夫木くんが同棲生活したってコメントもみましたが。

でも役者たちの生々しさ、劇画のゆらぎみたいな演技に対して、紋切り型の脚本と演出がすごくギャップがあって、それが映画にちぐはぐな印象をもたせているように思う。ただ、これはそういうのが好きと言われたらそうですかというしかないです。私にはレギュレーションの不一致と感じられるけど、好きな人にとってはそうではないかもしれない。以前感想に書いた『君の名は。』の人物と背景の話と同じ話になります。

あと単純に思わせぶりな役者の顔面のアップとかがあまり好きではないです。

 

怒りの話に戻ります。で、一番この映画で問題なのはプロットの欠陥で、物語の進行上3つの話を貫いている事件をめぐる『怒り』というキーワードが、テーマ的に3つの話を貫いている『人がいつまでも確かな信頼を築くことができずに失敗を繰り返し、理不尽な偏見・軋轢・無理解の小さな暴力が巡り巡って弱いものを殺す』という概念と全然上手に結びついていないという点です。もしかしたら原作からある欠点かもしれないので、そうだったらすみません(原作未読)。これは結構致命的で、森山未來の演技は良いと思うんですけど、ちょっと田中信吾(森山未來)のキャラクタ設定は雑が過ぎたんじゃないかと思うし、あのキャラクタの描写では、彼の持っていた「怒り」が、社会が形成される限りどうしようもできない小さな悪意の蓄積の雪崩によって爆発したという風には到底思えなかった。人が人を信じるには弱すぎるという話と、人が普遍的に善も悪も持ち合わせていて、偶然みたいな風向きでどちらの目が出るかわからないという話と、『弱いものが夕暮れ、さらに弱いものをたたく』という話と、個人では抗いがたい社会的な差別構造への反発から生まれる怒りって話がごちゃごちゃになっていてすごくわかりにくい。3つの物語を貫く「怒り」のスタンスが丁寧に描写されないままなので、結局ほかの2本の物語とまとめきれずに「誰に何が起こったんだっけ?そしてこの3つ今おんなじ話してる??」というとっちらかりのすっきりしなさが残ったのでした。もちろんわかりやすければいいわけじゃないけれど、複雑であることと混乱していることは別だと思います。

 

そして、私が最も納得いかなかったのは、沖縄問題とレイプ事件というかなりデリケートかつ深刻な「怒り」を取り上げておきながら、地域も歴史も社会も生活も考慮しないままに、「信じてたのにひどい奴だった」みたいな個人の突発的な怒りに物語の結論が収束され、あまつさえ被害者本人は途中でドロップアウトして、結末を女優の思わせぶりな横顔と海への叫びに託すというお茶の濁し方で締めたぶん投げぶりには、正直少々腹が立った。それ、そういう締め方するなら舞台が沖縄である必然性あった??東京で日本人にレイプされたって一緒じゃないか??あれじゃ物語の深刻さを味付けするために沖縄問題取り上げたと言われても仕方がないっすよ。そしてそのぶん投げが足を引っ張って、他の2本のストーリーの深刻さもなんだかふわふわと軽率に見えてしまったのだった。一番よかったのは謙さんの物語だったかな…。

 

あんまりよくない感想について長く書くのも心が重いもので…この辺にしておきます。役者陣の演技はどのパートも素晴らしかったように思う。宮崎あおいの泣き声と高畑充希の穏やかなとまどいと諦観が鮮やかに残った。